やっちゃんのあぐだもぐだ
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山が呼んでますよ!
いつもですが4月は慌ただしく過ぎて行きます。積雪状況が気になるスキーシーズンが終わった途端、桜情報がイッパイ飛び込んでくるのが4月です。立春過ぎの2月中頃から花粉情報が飛び交い、3月に入ってからは桜情報がTVの画面を占領します。スキーシーズンが終わったと同時に桜の開花情報が目白押しになります。スキー場立地にも恵まれた福島県ならではの桜情報の露出度上昇で何となく心が浮かれてきます。
さらにフェイスブックのお陰で、世界中の情報が瞬時に入ってきます。私の場合はフェイスブック友達にスキー関係者が多く、世界のスキー場情報が飛び交い、4月はまだスキーシーズン真っ盛りと錯覚してしまいます。ウィスラーカップなるアルペンスキー世界ジュニア大会は毎年4月上旬に行われ、日本からもU14とU12の選手が派遣され話題が広がります。ちなみにU12クラスは本年も総合優勝し、3年連続の栄冠を手にしました。U14になると欧米選手との差が開くことなど瞬時にわかります。日本でもこの時期は選手にとってはシーズン中。御嶽山では長野オリンピック以来の16年ぶりで高速系競技が行われたようです。標高2000メートル以上のスキー場はまだまだ真冬の様相を示しています。2000m以下でも山形県にある月山スキー場は4月にオープンです。それまでは積雪量が余りにも多くスキー場営業ができないらしく7月までがスキーシーズンであるのは別格です。
  雪の話題と桜の話題が重なるから、4月が慌ただしく感じられるのでしょう。今年は余計にせわしなく感じるのは桜の開花時期が北も南も近づいているからなのだと思います。ちなみに二本松霞ヶ城址の桜の満開は4月16日頃、岳温泉桜坂の満開が4月24日頃、両所は標高差330mあり、平均気温の4月の前30日は7.9℃の上昇、標高差による気温差2℃程度は約8日間の差で、ほぼ天地明察です。盛岡市が満開であったのは4月25日頃ですが岳の桜坂とほぼ同じなのが不思議だと思ったら弘前城も29日には満開になったとか。今春は緯度に沿った気温の上がり方は北も南もほぼ同時に感じます。偏西風の蛇行のせいでしょうか?反面、標高による気温差は意外に大きく、底部の桜の咲き方と高い標高での桜の咲き方は例年通りのようです。
  それにしても、今年の春は桜の話題が豊富です。福島県を上げての観光キャンペーンが4月、5月、6月と催され、各地で自慢の一本桜などが『オラの部落の○○桜だ』などと、人間を巻き込みながら咲き競っていました。岳のソメイヨシノは今日の雨ですっかり葉桜になりましたがヤマザクラと八重桜が咲き始めています。明日からはまた晴天が戻り新緑が五月の空に萌え出します。写真は4月26日の安達太良山の残雪、ゴンドラも動き始めましたよ。山開きは5月18日、湯川渓谷と奥岳間のシャトルバスとデマンド乗合タクシーも運行します。山が呼んでます、お待ちしています!

冬山の今昔
3月になってもこんなに雪の多いのは初めてです。お蔭で、例年以上に雪深い安達太良山に入る人が多く、湯元にある『くろがね小屋』の宿泊客がかなり増加しています。昨年暮れのBS・TBSで冬の安達太良山が全国放映されたこともあり、山岳関係の雑誌にもよく取り上げられていますが、これほど厳冬の安達太良に入山者が増えるとは驚きです。厳しい大自然の中に身を投じるような冒険心が誰にでもあって、最近はそれに火がついているのかもしれません。ちなみにスポーツ店に行くと、冬のスキーやスノーボードコーナーよりも登山用品コーナーの売り場面積が広くなり、商品品揃えが豊富なのには驚かされます。
さて、岳温泉の話を再び。岳温泉の歴史的記述は863年(貞観5)に遡りますが、約500年前の1496年(明応5)に「狩人が発見」後は畠山家の重鎮・秩父道灌平近平により所有開発されました。
畠山家が奥州管領として二本松の田地ヶ岡着任が1346年(貞和2・正平2)、3代目の国詮で復活し奥州探題に補任(1414年・応永21)され4代目満泰により二本松城として白旗峰に城が築かれちょうど今年で600年になります。畠山家に関しては、天正13年(1585)に二本松城の畠山義継が塩松城(岩代)の伊達輝宗に和睦交渉に出かけ折、隙を突いて伊達輝宗を拉致逃走し、事件を知った伊達正宗が急遽駆けつけ父輝宗と畠山義継の両人共射殺した話は粟ノ須の変として有名です。
この畠山家の重鎮・平近平が創建したのが光現寺(天文年間・1550頃)であり岳温泉の湯守の直系は今でも檀家になっています。栗が柵舘主であった平近平は伊達正宗に畠山家が滅ぼされた後も、温泉の権利を有し1617年頃(元和年間)から温泉地開発が始まっています。温泉湧出地は標高1400m地点の旧噴火口付近にあり地形が険しく、土砂崩れにも度々見舞われました。1670年(寛文10)には雲堂和尚が山止めの祈願をし、150年間の山中での歌舞音曲を許し繁栄を祈った梵字石が刻まれ残っています。しかし雲堂和尚の法力の解けた154年後の文政7年(1824)に山崩れで陽日(元岳)温泉が埋没し、その後の引き湯、移転、復興の繰り返しの温泉になっているのが岳温泉の特異なところです。
陽日温泉時代の温泉営業は八十八夜から秋分の日までと決まっており、冬期間の温泉は休業。ベースキャンプの深堀村にて炭焼き作業が中心の生活であったようです。丹羽家入府(1643年・寛永10)以降に深堀村の冷涼で良い水があることの立地と冬期間の特産品づくりとして凍り餅が製造され、二本松藩により凍餅奉行がおかれ、幕府への献上品としても使われました。
  今年、当館は創業80周年を迎えます。二本松藩での祝い事に使われていた『すあま』を創業記念として凍り餅を少しまぶしてお茶請けにお出しいたします。今なら冬山登山の携行品にもいいかもしれません。写真は今年3月の振り小沢付近のスノーシューでの登行姿。スノーボード、スキー、スノースクートを担いで歩く三人三様の装備にはびっくりします。装備がよくなり厳しい環境の中でも快適な下りができることでしょう。
水戸黄門公と湯守のこと
やっぱり、異常気象ですね。今まではあまり見なかった気圧配置が頻繁に現れるようです。昔は台湾坊主と言っていた南岸低気圧が発達し過ぎ、関東甲信越に2週続けて豪雪をもたらし、福島県の中通りや浜通りも大雪でマヒの状態です。ソチオリンピックのスキー競技会場にも時ならぬ雨が降り世界中が異常気象だと思われます。
さて、前回の続きで水戸黄門公にもお泊り戴いたお話。ご宿泊日は元禄11年(1698)の8月に4、5人にて陽日(元岳)温泉にお泊りのようです。この時の黄門さまの年齢は満70歳、湯守の平近平が黄門公に気づき懐紙に書いたのを佳紙に書いていただいた歌が『山の奥にかゝる男をミちのくのの二本松なら又も近平』です。湯守近平が印童をお願いしたところ携行せずと断られたとのこと。この時に名づけられた沸き水が『金明水』であり、今も引き湯脇の登山道に水飲み場があります。
二本松寺院物語には、大隣寺九世の千厳智拙和尚が元禄年間に黄門公が病になられた折、水戸の高僧・黙室風外和尚が嶽(岳)温泉の薬湯の湯花を求めに来られたとあります。黄門公は薬効空しく元禄13年12月(1701年1月)に72歳6か月で他界されたようですが、岳の湯の湯治のあとに湯花の薬効を病気の治癒に使われていたとは驚きです。黄門御一行ご宿泊の136年後・文政7年に、鉄山(1708M)の山崩れで温泉地全部が埋没し二百数十名の死傷者を出した大参事がありました。その時の遭難者リストには水戸藩士族14名、水戸一般13人、常州2名、鉾突2名と合計31名もあり、いかに水戸藩のお客様にご愛顧頂いていたかが推察できます。
この文政7年の山崩れ事故の後、すぐに再興なったのが十文字岳温泉です。この時の引き湯距離は約6キロ、湯樋は松材の2間物(3.6m)に4寸又は3寸(12〜9p)の樋を掘ったもので土中に埋めて引いてきたようであり、源泉は熱ノ湯と滝ノ湯からの二本樋で来ていたとも言われており、御殿湯の下に惣熱湯、総滝湯と記述もあり高温、中温の二線引き湯の可能性が高いと思われます。ちなみに文政12年(1829)に二本松藩医の宇多玄微が江戸の宇田川榕庵に温泉分析を依頼したのは2本の陶器瓶であり、十文字岳2本線引き湯は可能性としては高い気がします。復活なった家並みは見事な総檜造り2階建てであり、江戸の吉原とも見紛うようだとの話も残っています。残念ながらこの十文字岳温泉は42年後の慶応4年(1868)春には、もぬけの殻となり、西軍の拠点になることを恐れ焼かれてしまったのです。長い温泉の話の続きは次回に続けたいと思います。
写真は豪雪の直後の温泉管理の雪の穴、深さ6mもあるようです。真冬でもこうやって悠久の温泉を守ってもらっています。感謝感謝です。気を付けてください。
地球温暖化と岳温泉の話
二本松に下ると、「今年は雪が無くていいですね!」と声かけられます。
「いや、岳から上は雪があり、特にスキー場から上は例年より多いです」と応え、「やっぱり、上層と下層空気の温度差が極端に違うようです」と、知ったかぶりします。
私は、生れも育ちも岳温泉だから、異常気象と地球温暖化現象を肌身で感じると断言できます。ついこの間までは、大寒の頃に雨が降るようなことは無かったと記憶しています。
2日前までは自宅周辺の空き地は真っ白の雪の原でした。しかし、昨日の気温が8℃くらいになり夕方からは激しい雨で地肌丸出し、今朝はまた薄っすらと雪が積もっており季節が一か月も早く進んだかと錯覚しそうでした。ちなみに気象庁観測開始からの平均気温データは、1876年が13.6℃で2013年が17.1℃と、137年間で3.5℃も上昇しています。平均気温が15℃代であったのは1977年まで、その後は34年間で1.1℃の上昇です。岳スキー場開設時の1929年の平均気温は14.3℃ですの1876年から53年間で0.7度の上昇ですが、スキー場開設時点からは84年間で2.8℃も上昇しています。この時の岳スキー場底部は標高650m、現在のあだたら高原スキー場ゴンドラ乗場が950m、標高差300mは気温1.8℃分ですが標高の高いところへ移動しても温暖化に追いつかれてしまいました。1月末のこの数日間の激しい気温差は体調やメンタル面でも影響します。大好きなスキーが追い詰められているように感じます。温暖化による寒暖の激しさに影響され、自分がキレることのないように注意したいと思います。
キレそうになったら温泉でノンビリする事が一番。温度がまったく変わらない悠久の温泉が『岳の湯』です。
岳の湯について最初の歴史的記述は863年(貞観5)に小結(こゆい)温泉神、そして897年(寛平9)に小陽日(こゆい)温泉神としての官位を賜った時です。その後、500年間近くブランクがあり1496年(明応5)に狩人にて発見、奥州探題畠山家重鎮の平近平が元和年間(1671年頃)から開発を始めたとの言われています。また、大玉村の相応寺縁起には岳温泉は807年頃(大同年間)に徳一大師が薬師如来の肌から出ている湯で猪も猟師も傷を癒していたので湯前神を祀ったとの謂れが残っており、岳温泉神社春祭には相応寺住職が祭祀となります。秋祭りは岳温泉熊野神社として貴船神社宮司が祭祀となる神仏合祀の神社です。
二本松寺院物語には、二本松藩丹羽公菩提寺である大隣寺九世の千巌智拙和尚の時、水戸の黄門公が病になったので嶽温泉の湯の花を求めに水戸の高僧黙風外和尚がお出でになったとの記録があります。元禄11年(1698)には岳の湯に湯治に来たと言う話も伝わっていますが(相生集)、満70歳の黄門さまに山中の岳の湯までお出でいただことは素晴らしいことです。
岳の湯は1824年(文政7)に山崩れで全滅し、翌々年に6km引き湯をして移転復活してますが、この時はシーボルトの弟子の宇田川榕庵に二本松藩医の宇多玄微が温泉分析をしてもらっています。十文字岳温泉以降の話はいずれ詳しく書きます。写真は湯元付近の冬景色です。名物のくろがね焼を焼いている玉川屋の専務のFacebookから無断で拝借しました。素晴らしい写真ですね!8kmの引き湯を守ってもらってもいます。
行く年、来る年
2013年の印象を羅列してみます。世の景気動向から言えばアベノミクスなる経済刺激策が実行に移されたことの効果が大きいようです。うまいネーミングで株価も年初の1.6倍の大納会であったとか、今のところ順調に見え、新しい年も好景気が続いてほしいものです。
  福島第一原発の汚染水問題については腹立たしくなります。原発事故の収束がいつになるのやら福島県人としては精神衛生上良くなく、まったく気が晴れません。
世界中で異常気象状態が目立ちました。日本でも気温40℃超の日が連日出現。アメリカにしかないと思っていた大竜巻も九州に発生、さらに関東地方にも急襲するとは、大気が今までにないほど不安定化しているのでしょう。フィリピンでの甚大な台風被害は悲惨でした。
おめでたい話としては伊勢神宮の遷宮と出雲大社の遷宮が重なったこと、富士山の世界文化遺産決定、三浦雄一郎さん80歳で最高齢エヴェレスト登頂などはみんながお祝いをしたい気持ちになりました。お蔭で私も足首に五sの錘をつけて歩きました。私の場合は三日坊主でしたが。
不思議なことといえば宮崎駿監督がどうして引退してしまったのでしょうか?宮崎監督の制作してきたアニメが何故か人類の未来を暗示しながらも、現実に起きてしまったことに対してぶつけようのない感情があったのかもしれません?
スポーツ面では楽天イーグルスの優勝かな、マーちゃんの無敗勝利投手はすごいことです。スキー女子ジャンプワールドカップに高梨沙羅が史上最年少総合優勝、ソチオリンピックが楽しみです。
朝の連ドラの「あまちゃん」の大ヒットはテーマ音楽が良かったのもかなり影響している気がします。ちなみに作曲家の大友良英さんは福島高校出身で同級生の弁では高校時代からかなり飛んでいた人らしいです。流行語大賞に「じぇじぇじぇ」が入り「今でしょう!」「お・も・て・な・し」「倍返し」と4語同時というのは新しい現象かなと思います。
2020年の東京オリンピック決定。続く猪瀬知事辞任は天と地ほどの違いでした。福島、郡山、二本松と現職市長の連続落選と既存の権威がすべて否定されてきたのかもしれません。
さて、2014年はどんな年になるのでしょう?景気も引き続き上向いて、福島原発の汚染水垂れ流しも解決付けばいいですよね?異常気象に対しては用意周到に備えなければならないのでしょう。
我が宿のこと。4月に昭和9年創業から80周年を迎えます。ちなみにこの年に日本のプロ野球が始まりました。さらに、初めてアメリカンフットボール競技が米国から渡り大学リーグが誕生しました。我が宿の最初のお客様は早稲田大学米式蹴球部夏合宿です。写真は創業コーナーの『昔の帳場』。大きな扇があるのは昭和9年当初は扇屋分館の名称であった為です。2014年も末広がりによろしくお願いいたします。
師走雑感
明日から師走、何故か今年は余計に気持がせわしなく感じます。多くの天文ファンを沸かせていたアイソン彗星が太陽に近づき29日に崩壊したそうです。アイソン彗星で一儲けをたくらんでいた会社などがひょっとしたら大損でしょうかね?
「太陽に近づきすぎて消滅とは、ギリシャ神話のイカロスの翼のようだ」とは宇宙飛行士の若田さんのツイート、ギリシャ神話に疎い私も慌ててネット検索でなるほどと納得。イカロスの羽を蝋でくっつけて空に舞い上がり、警告を無視してあまり太陽に近づきすぎて蝋が解けて墜落死した悲しいお話しなのをようやく悟りました。アイソン消滅の余波は旅行関係に大きいようです。上空から太陽を通過した後のほうき星を観察するイベントを持つための企画も催行中止かも、JALのチャーター便やクラブツーリズムやHISのツアーもキャンセルとか、経済的にもアイソン消滅の余波はかなり現れるのでしょうか。
  ギリシャ神話のプロメテウスの罠も、巨大な火を制御できなかった人間が、一つ間違えばすべてを焼き尽くす話です。最近では原子力の力を制御できなかった人間の比喩に使われるなど、ギリシャ神話からのお話しが、うんと気になるところです。人間が制御して原子炉で使われた核燃料の燃えカスを、地中深くに埋めておいて時の過ぎるのを待たなくてはならぬ処理方法は、果たして正しいのでしょうか。私は、正しくないと思い原子力発電そのものに賛成できません。科学は真実を解き明かすためにあります。結果が予測でき、不幸な結末になるか、子孫に付けを回しながら時間軸で問題を解決しようとすることに憤りを感じるこの頃です。もっと、ギリシャ神話を読んで賢明な人類は学んで欲しいものです。
さて、自然界。こちらも従来と違った冬を迎えそうです。ラ・ニーニャ現象の時は偏西風が蛇行し西日本でも早めに雪が降るようです。昨日、東京に行くときに振り返った安達太良山は冬の装いでした。それでも11月の東京は晴天で暖かいだろうと車にコートを置きっぱなしにしていったところ、二本松と東京の気温はほぼ同じ気温で東京駅を降りた途端に風は強いし、寒いし二本松にコートを置きっぱなしにしたことは大失敗だったことを痛感。その夜の天気予報で鹿児島県にも初雪が降ったとか、11月に振ったのは23年ぶりのことらしく、ラ・ニーニャの今年は要注意です。ラ・ニーニャの時は台風の発生も多く強大になるようです。フィリピンの被害があったばかりですので現実の異常気象を我々は感じていることになります。
自然界の自然な話も、人間の意識が加わるとバイアスがかかり出します。バイアスをかけたままにしては置けません。思うに、今年の秋、気候は異常でした。それでも写真のような紅葉が部分的に見られました。ここ数年はラ・ニーニャのいたずらを我慢しながら、プロメテウスの罠にかからないようにするのがいいように感じます。
五星山に会いに来ませんか?
安達太良山東側の二本松は秋のシーズン真っ盛り。安達太良山のてっぺんからお城山まで、色取が大変豊かになっています。例年の豊富さに加え、さらに今年は五星山展が開催されさらに色取を添えております。二本松の秋は自然の彩はもちろんですが文化的な彩も豊富になり祭状態が長く続きます。
この辺りの紅葉前線は等高線に沿って標高差300〜400m単位で下りてきます。この現象に気づいたのは10月26日に猪苗代に行ったときです。猪苗代湖の湖面の高さと岳温泉の鏡が池の湖面の高さはほぼ同じで標高500m前後です。その日猪苗代の町から天狗角力取山(1360m)を見ると、平地から200m(標高750m)位上がったところから上部が黄色い帯にになって頂上付近まで行っているのです。上空と平地の気温の差がはっきりする地形ならではの景色でしょうが面白いものです。安達太良山東南側の9月末は標高1600mより上部、10月上旬は同1600m〜1200m、10月中旬は1300m〜900m、10月下旬は900mから500m、そして11月上旬は600m〜200m、中旬は300m以下で木枯らしが舞い降りて冬枯れの野に変身します。
紅葉の色の豊富さは、福島県が一番と自負します。緯度が日本列島南北のちょうど真ん中だからでしょう。日本列島で確認される野鳥は平均550種、福島県だけが600種確認されるとのことです。ちなみに世界の鳥の数は9800種と言われています。野鳥が一番多く飛来する福島県は植生の多様性が一番だからです。その中でも特に安達太良山は東西南北の気候のぶつかるところにあり、標高差1700m位の標高差が発色状態に微妙な違いを呈するのかもしれません。
さて、このような秋、二本松の大山忠作美術館にて五星山展なる美術展が開かれており、空前絶後の入込を記録しております。文化勲章受章者の日本画の巨匠五人(故人)の作品が一堂に会する展覧会です。日本で初めての開催、もちろん世界でも初めてです。大山忠作画伯が二本松出身であり、お嬢様の発案で5人の文化勲章受章の遺族の方々に声をかけて、福島県の心の復興のためにと実現したものです。五人の方々は、東山魁夷、高山辰夫、平山郁夫、加山又造、そして大山忠作です。美術館では5人の名作がずらり競演しており圧巻です。大山忠作画伯のお嬢様で女優の一色采子さんが作品の説明をされる様子には、こんな空間が二本松にあったのかと不思議な感覚になります。
写真は、開設日に撮らせていただいたものです。高山辰夫画伯の作品です。オープン日には画伯のお嬢様にもお目にかかれました。この絵のモデルになった方です。
お城山の紅葉も見頃、菊人形も見頃の中、11月17日まで五星山展が開かれます。これを見逃すと、巨匠5人が一堂に会するチャンスはめぐって来ないと思います。是非、五星山展を見にお出でください。
大好き岳山の話
  安達太良山は皆に親しまれている山です。岳山、乳首山、甑岳などとも呼ばれ誰でも大好きです。好きだからこそ安達太良山にまつわるケンカの話などがあり、面白いので少し紹介します。
   その一つは、白沢村と大玉村に伝わる『岳山(だけやま)と岳山(たけやま)のけんか』の話。昔むかし、岳山(だけやま)という名の山が二つあったそうで、一つは玉ノ井村(現大玉村)の大きな岳山、もう一つは白岩村(現本宮市白沢)の小さな岳山です。ある時、岳山の名称をめぐってお互いにけんかになり、大きな岳山はそばに有った硅石を小さな岳山に投げつけ、小さな岳山はそばに有った地竹を大きな岳山へ投げ返したそうです。このけんかのお蔭で二つの山の間にある村や町には地竹と硅石が沢山採れるようになり、大きな岳山を『だけやま』と呼び、小さな岳山を『たけやま』と呼ぶようになって呼び名の件かは一件落着した話です。白沢村には硅石鉱山の廃鉱があり、間の本宮町では地竹をたくさん拾うことができ野菜を買わなくても済んだとの昔話です。原発事故の後、地竹を余り食べなくなったのが悔やまれます(放射能検査では基準値以下ですが)。
2つ目は国境争いの話。安達太良山の稜線は中通り地方と会津地方の分水嶺です。江戸時代には二本松藩と会津藩の国境でもありました。安達太良山は活火山であり、硫黄が沢山採掘されてきました。この硫黄の採掘権をめぐっての国境争いがあり、当初は会津藩が裁判に勝ち、百年後に二本松藩が勝訴した話です。勝訴の原因は、国境に昔埋められた炭が埋まっているはずだとの話が、幕府評定所で認められたとか。安達太良山の船明神山までが郡山市に入るので二本松藩の領地となったのでしょう。ちなみに沼の平付近で採掘された硫黄は馬の背に轆轤を設置し木ゾリで二本松側に運び、油井まで降ろしたようです。明治になり沼の平の硫黄採掘は猪苗代側から行われ、貨客両用の沼尻軽便鉄道で精錬された硫黄が積み出され、『高原列車は行く』の歌が生まれました。
3つ目は万葉集に因んだ話。安達郡が安積郡から分割したのは906年(延喜6)です。それまで安達太良山は安積郡に属しており、安達太良山は浅香山であったという説。万葉集の『浅香山かげさえ見ゆる山の井の浅き心をわが思わなくに』の浅香山=安積山=安達太良山であったという説で、万葉集には安達太良は三首読まれており合計四首あることになります。因みに安達郡の主峰として文字通り安達太郎のアダタラになった後は、葛城王と采女伝説の山の井から見える山が浅香山(額取山)になっています。余談ですが私の祖父は山の井=玉の井だと話していたのを思い出しました。最初の二つの岳山の話と似ていると思いませんか?
写真は、昨日行われた安達太良トレラン50Kの船明神山への登りのランナー。全国から300人以上のアスリートが参加、安達太良山を4回も登ったり下りたりするのですが、競技を忘れ景色に感動し、立ち止まって写真を撮っている場面。岳山の景色は争いも忘れてしまうようです。少し色づき始めたました。
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