やっちゃんのあぐだもぐだ
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日本 VS カナダ リゾート論
 先日、久々に海外でスキーをしてショックを受けて帰国、熱い内にリゾート論を展開したいと思います。
 日本のスキー場は豪雪地帯のすぐ近くに人口集積地帯を持つ好立地です。1980年代にはスキー人口は4000万人とも言われ、日本国中に新しいスキー場も続々と作られました。バブルがはじけ山間部のリゾートマンション群が、ゴーストタウン化し、スキー場立地の大ホテルも半分占めてしまうような状況となり、スキー場事業者も次々に変わり現在に至っています。
 一方、海外のスキー場で素晴らしい発展を見せているのがウィスラー村です。1960年の村の人口は500人、積雪が多く標高差最大1600mもとれバンク―バーから120kmの距離にあり計画的にスキーリゾートづくりがされました。ヨーロッパアルプスの村のリゾートをカナダの山岳地帯に作るというコンセプトのもとにスキー場開発が始まったのです。当初からヴィレッジ内のホテル群をアルプスの村のように広場を中心に傾斜に合わせた街並みに配置させ、街中には車を入れなくし各ホテルの入り口と駐車場は外側に配置されました。町のメインストリートのウィスラーマウンテン側にはゴンドラ乗り場が置かれ、スキーを滑り終わった色とりどりのスキーヤーはホテルに戻る前に、アフタースキーのビール一杯をホテル前のテラスにて楽しむ風景はまさにヨーロッパアルプスのリゾート風景の凝縮です。スキー場のボトムに計画的配置のしゃれた飲食施設や店舗は昼も夜も賑わいを見せます。1993年頃には下水道の処理人口が5万人を超え追いつかない話もありましたが。2010年バンクーバーオリンピックを機にさらにスキー場としての整備も整い、ヴィレッジそのものの魅力もアップしたのを実感しました。さらに驚いたのは、20年前まではオフシーズンであったグリーン期が活況を呈し、入込数が増えオールシーズンリゾートになっている事です。ゴルフコース、トレッキッグ、ロッククライミング、そして今はマウンテンバイクダウンヒルの聖地として世界的に有名になっているようです。リゾート地域全体で新しい遊びを開発し、そのスポーツの愛好者を増やしていき特定スポーツのメッカに仕立て上げてビジネスとしても成り立たせる手法を持つ欧米人には脱帽です。
 さて、我が岳温泉のリゾートとしての現況。安達太良山を裏山に抱く岳温泉は山岳リゾートとしては他に抜きんでた観光資源立地にあると考えます。安達太良山系の登山口には4つのスキー場があり夏も冬も変化のある山を楽しむことができます。最近は冬の安達太良への登山者が多いことにも驚いております。スキー場立地としてはウィスラーには到底及びませんが安達太良山全体を考えた時にこの地での過ごしかたや遊び方の提案がまだまだ少ないリゾートであると反省しております。最近、冬山に入るバックカントリー愛好者が増えて来たのは自然発生的現象です。40年ほど前に冬山ツアーの魅力的な安達太良山として話題になったこともありました。我が安達太良山からも新しい遊び方や過ごしかたをどんどん提案し世界に冠たる山岳リゾートにすることを誓い、私のリゾート論といたします。写真はウィスラーゲレンデ内の顧客満足センター、スノーリゾート滞在者の満足度が向上するようにエリア全体で対応する仕組みは参考になりました。
年の瀬二題
今年、気になった事をいくつか挙げ、晦日の『あぐだもぐだ』としたいと思います。まず印象に残ったのは2月の大雪でした。実は私はこの日は岳温泉にはおらず、東京新宿で札幌大通り公園と見間違うほどの積雪を経験し、翌日帰宅しようと思っていた矢先に家内から電話が入り、東北新幹線も止まり、4号線も車が全く動けないし、朝日杯スキー大会も中止だから帰って来なくていいとの電話で、2日間東京に泊ってようやく帰宅できたのでした。異常気象の度合いが激しくなった気が致します。8月20日の広島の土砂崩れもその一つのような気が致します。降雨量観測史上という集中豪雨が局地的に発生する原因は、積乱雲が発生し、さらにその横に急激に積乱雲が発生するなどの現象が起こるようになったことが報告されています。今年の秋の台風も地球上の巨大な渦として宇宙ステーションから鮮明に映し出され、下界で生活する人間を不安に落し入れます。冬になってシベリアの高気圧が張り出し台風並みの低気圧が北海道の太平洋沖にある天気図は驚かされます。特に今冬は早い時期に西日本各地に大雪をもたらし四国でも広い地域で停電が長引き、さらに車で移動中に凍死者が出るなど、世界中の異常気象ぶりが一番気になった年でした。
もう一つ気になったこと。今年最終日の朝日新聞の社会面には大見出しで『ライダー 年齢に死角・中高年の事故死増加』と出ており、「バイクの死亡事故が減るなかで、中高年ライダーの事故死が増えている。……リターンライダー世代が事故原因に直結する「衰え」と向き合うことは簡単ではなさそうだ。」『衰え自覚し安全運転を』『ひざガクガク・体硬くなり、目も悪く』との大見出し小見出しに自分に照らし合わせた時に思わず他人ごとではないと思いました。実は私は、2年前の4月に腰椎の手術をしました。原因は、2012年秋に100m歩くのに3回も休まないと歩けなくなったからでした。その年の6月頃から腰痛が激しくなりかなり傾いた姿勢で歩いていました。何とか手術しないで直そうと思った10月に桐下駄で走り、結果腰痛の発症でした。今考えると震災間もない2011年9月にトレラン大会に出たことが老化を促進したことになったと悟ったのです。どんな年寄りでも青春時代のページに軽やかに走ったり飛んだりした時期があることが脳裏に焼き付いていると思います。私は人一倍にイメトレ人間であり、過去の一番いい時期に照準を合わせて激しく運動してしまう癖があります。成人してからこの方、何度も同じように、年甲斐もなく『過去の最高のコンディションに合わせて』失敗していることに気づきました。最初は子供たちが小学生の時の運動会、トップで走っているつもりが足もつれて転倒&擦り傷。こんな経験は皆さまお持ちかなと推察しますが、同じことが中年ライダーの記事でした。皆さん、ご注意!
ロコモティブシンドロームも要注意です。最後に岳温泉では正しく歩く基本を地域ぐるみで伝授して、健康長寿社会実現へ取り組んでいます。良いお年をお迎えになり新年も岳温泉で歩きに来て、基本から学んでいただくことをお勧めします。写真は岳クラブのスノシューウォーキング2014です、冬も歩けます。
歴史の回り舞台二本松1585年編
二本松城築城600年の記念の年に当たる菊人形は11月24日で第60回目を無事に終えました。菊人形のテーマは二本松ヒストリア、二本松の歴史を紐解くような場面構成でした。600年の歴史を菊人形の場面だけで表現するのはかなり難しいことですが印象はいかに?室町幕府によって畠山氏の奥州探題が置かれた史実は二本松が地理的に重要な位置にあったことの所以だと私は解釈します。畠山氏二本松から丹羽氏二本松、そして明治から現代への歴史絵巻を菊人形で表現する試みは場面と説明文だけでは難しくとも、時代エポックの菊人形の鑑賞で600年の歴史を楽しんで戴けたかと考えます。
さてヒストリアの一場面は『粟之巣の変事』、これは天正13年(1885)に二本松藩主畠山義継が小浜の宮森城(旧岩代町)の伊達輝宗に和睦に行った際に、不穏を感じた義継が帰り際に輝宗を拉致し、二本松に向かう途中の粟之巣にて、危急の報に鷹狩りに行っていた息子の伊達政宗が追いつき親と敵将を二人とも鉄砲で射殺した事件です。このような長い話を菊人形の一場面だけで完結させるのは至難の業であることを承知の上で場面構成するのですから大変です。この話は前後の話を理解しないと、どうして伊達政宗が登場するのかと思うひともいるでしょう。その話の一つに伊達政宗の非情さを世に知らしめた、悲劇の小手森城(旧東和町)の話です。この話はこの年の8月23日〜27日にかけて小浜城主大内定綱の領地として菊池顕綱が守る小手森城に伊達政宗の軍が兵を進め籠城する農民を含め老若男女800余名と犬猫畜生までの全てを殺傷した悲劇として伝わっています。大内定綱と畠山義継が組んで政宗の岳父・田村清顕氏から攻撃を食い止めようとしていた時の事件が粟之巣の変事です。政宗は父輝宗の初七日法要を済ませ弔い合戦を仕掛け二本松城を包囲したところが二本松城救援の佐竹氏率いる3万の軍勢・南奥州諸侯連合軍と激突したのが11月17日の本宮の人取橋決戦です。この話も様々な展開を見せるのですが長いので次回以降にします。
さて、このような伊達政宗の戦いのあとが残るのも二本松を中心とした中通りと会津です。時代が変わって平和な徳川時代に入り参勤交代で仙台伊達藩が二本松城下に入る時に大名行列の鉄砲隊が火縄に火をつけて通ったこともあり、お殿様が変わっても伊達家は二本松城を警戒していたという逸話もあります。
また、会津の身不知柿(みしらずかき)は、二本松では西念寺柿と言います。伊達政宗に追いやられた大内家係累の宮森家が小浜の西念寺の柿の木を会津に持って行き会津の地で品種改良を重ねて身もたわわな特産品にしたとのことです。ちなみに会津の造り酒屋のルーツも二本松です。栄川、花春、宮泉酒造の宮森家、末広酒造の新城家も畠山家の係累で重鎮、二本松城600年のヒストリアです。写真の会津身不知柿は熱塩温泉山形屋さんのFacebookからお借りしました。
観光地情報の一考察
 観光情報の提供の仕方がすごく難しい時代になって来たと感じるこの頃です。
 今年は、安達太良山山頂付近で紅葉の始まったのが9月20日頃で例年より10日程早めですが、標高が低くなるにつれ通常の年と同じになってきており、紅葉狩り旅行の時期選定が難しくなってきたように感じています。
 北海道では観測史上初の夏日を10月末に記録し、翌日には平地に積雪があり一日の温度差が25℃も出てしまう気象状況で、こちらは旅行着を決めるのに迷います。秋の巨大台風が宇宙ステーションから映し出され沖縄や西日本には被害を及ぼしました。でも台風のコース上の長野県やわが福島県の中通りや会津ではそよ風状態、NHK台風ニュースは過剰放送だと非難されるほど東日本は平穏でした。お蔭で菊人形会場も無傷で千客万来のシーズンを迎えていますが、少なからず旅行キャンセルが出てしまいました。
 紅葉と桜前線を同じように捉えている方も多く、「満開の時期はいつごろですか?」。「はい、今の桜坂はつぼみが膨らみ始めたのであと一週間ですかね?」が春のやり取りです。ところが秋は、「安達太良の紅葉はいつごろですか?」。「はい、今年は例年より10日程度早いのでもう始まっています」。「えっ!10日の連休はもう終わっていますね?」。「いえ、山頂付近は色づいていますが、スキー場近辺はちょうどいい時期ですよ!」のようなやり取りになります。紅葉情報は長い期間勝負ができる季節であり観光業にとっては時期選びが最も大事な要素で売り上げに大きく影響します。
 今はインターネットの発達により観光業者以上にお客様の方が情報通です。特にスマホ普及による情報取得の速さに、現地の我々がほとんど追い付いていない現状です。歴史的名所旧跡の情報などは、すべて勉強してお出でになります。現地にてさらに詳細な情報提供が必要でも、まるでできていない観光地が日本には多いような気が致します。
 私は人気のある観光地の第一条件は情報の提供が素晴らしいところではないか思っています。このことこそが大事なおもてなしの要素の一つだと思っていた矢先にある小説の訳者あとがきにヒントを見つけました。ベストセラーになるほどの小説には理由があるようです。この小説には人気になる9つの理由が挙げられており、一、文化的教養を深められるとか、一、観光事業に多大な貢献という項目などが挙げられおり納得でした。この小説こと『インフェルノ』は近々映画化されるようですが著者のダン・ブラウンによる詳細な記述が舞台のフィレンツエとベネチアとイスタンブールにあり私は引き込まれました。特に、自分が旅行者として行ったことがあるところの描写には目を離せなくなり、読んでいる途中に旅行写真を引っ張り出してベッキオ橋の三階の裏通路を確認したくもなります。行ったことのないイスタンブールへは是非行かなくてはの思いが強くなりました。観光業を生業としているものにとっての[情報提供のおもてなし]は本当に大事な要素だと思った次第です。
 写真は今朝の安達太良山の写真です。明日から11月。鏡ヶ池周辺の空気はとても澄んでいて、頭がスッキリと冴えるような感じです。高村光太郎が『智恵子抄』の樹下の二人にて詠った安達太良の空の下で『木の香りに満ちた』ほんとうの空の空気を吸いにお出になりませんか?
山の安全を祈ります
突然の御嶽山噴火には驚きました。山頂付近にいた沢山の登山者のことを思うと心が痛みます。私はちょうど9月27日の土曜日の昼頃に猪苗代に向かっている時にNHKのラジオニュースで聞き、たまたま115号線土湯トンネル手前で吾妻山一切経の噴煙がことのほか大きく見えたので気になっていたのですが、まさか御嶽山が突然爆発するとはショックでした。今年は安達太良山で開かれたトレイルランニングレースの日程が3週間前倒しになった理由が御嶽山のトレランが9月にさらに一レース追加になった為だと聞いていたのでひょっとしたら1000人以上のトレイルランナー達が御嶽山に入っているのではと思ったからでした。確認したらそのレースは2週間前にであったことを知り一安心でしたが、現在の状況で多くの登山者が犠牲になったとのこと、心からご冥福をお祈りいたします。
御嶽山に登ったことがありませんが、実はトレランがらみでこの山のことは以前から気になっており、今年の4月に御岳2240という名のスキー場を訪ねてみました。このスキー場は標高1680m以上のところにあり4月はまだシーズン真っ盛りのスキー場です。一度このスキー場を訪ねてみたかった理由の一つは、1998年の長野オリンピックを境にスキーアルペン競技の高速系レースが日本では開催されなくなり、ようやく今年4月に海外の高速系の招待選手を招き『御岳2240』で開催したことを耳にしたからでした。ソチの冬季オリンピックでは新種目の金メダリストが出ても、伝統的アルペン競技からメダリストが出ないことにヤキモキしていたスキー大好き人間の思い込みからです。1952年のコルチナ・ダンぺッツォ・オリンピック銀メダリストの猪谷選手は回転競技だけが得意だったのではなく滑降も大回転も強かったようなので、スキーの技術系種目だけをトレーニングしても絶対にメダルには届かないだろうと思っているスキーキチの一人です。御岳2240スキー場が高速系種目の競技再開に踏み切ったことに日本のスキー競技のレベルが上がるキッカケになると思っていた矢先の御嶽山噴火は晴天の霹靂でした。通常のシーズンと同じようにスキーヤーが多く訪れるよう平常に戻ってもらいたいものです。
さて、安達太良山のこと。トレランレースの人気が高まり9月6、7日に行われたあだたらトレラン50Kの参加者は700人を超える盛況ぶりでした。安達太良山も活火山であり警戒レベル1です。このトレランレースも沼の平噴火口の淵がコースになっているので突然の噴火があったらと思うと他人ごとではありません。噴火口に近い稜線には登山客のシェルターともいうべき避難小屋は鉄山の山頂付近にあるものだけです。50年ほど前までは矢筈ヶ森の避難小屋があったので復活再建築する必要があると痛切に感じます。写真は今年の船明神山でのトレラン風景。平常の山は素晴らしい景色です。いつも安全な山であることを祈ります。
岳山の国境紛争
世界各地で国境争いが目立つこの頃です。尖閣諸島や竹島は身近に感じるので何とか早く解決しないものかと思いますね。
  江戸時代に二本松藩と会津藩の領界争いがあり大岡越前守まで登場して100年越しで解決したお話があります。
  事の発端は丹羽家二本松藩と保科家会津藩が誕生した寛永20年(1643)8月。それまでは会津40万石に移封された加藤家が会津も安積・安達郡も治めており、山中にあったわが岳温泉の御先祖が沼の平噴火口周辺の硫黄や湯垢(湯花)の採掘、採取を行い、沼尻の湯の湯銭まで徴収していたのが、突然二本松藩と会津藩に領界を区切られたことにあります。
  1643年8月の幕府の記録には二本松藩が金五両にて二本松硫黄の運上が記載されており、二本松藩が経済的権利は持っていたようです。
この時から20年程たった寛文4年(1664)が第一回裁判です。この時は二本松藩と会津藩が幕府に持ち込んだところ控室にて会津藩役人の友松勘十郎が、二本松藩役人の丹羽右近正行に対して、「貴殿、この度の御用は会津領岳山の一件でござろうな…」と言われて、右近は「左様で……」と言いかけ、ハッと気が付き「…ではござらん。して貴殿の御用は二本松領岳山一件について……」と言ったとか言わないのやりとりで、間もなく幕府の役人が裁判の場に両藩の担当役人を誘導しようとしたところ、会津藩役人から有無も言わせず「武士に二言は無かろう…」と言われ、和議申立、裁判取り下げで会津藩の勝訴となり、丹羽右近は退廷し二本松藩公に詫びて責任を取り割腹して詫びたことに有ります。
  この事を二本松藩に享保19年(1734)に着任した儒学者の岩井田昨非が藩政改革ヒアリングで耳にし、そこから20年がかりで岳山(安達太良山)の領界を取り戻す話の展開となります。岩井田昨非の作戦は、20年後に裁判に持ち込み二本松藩を勝訴に持ち込むことでした。その中で、三尺彌源次という忍者のような身の軽い人物を使い、稜線に炭を埋め、会津藩との領界をできるだけ西側へ押し込むべく境界の曲がり角に真弓の木やユルの木を植えさせ、さらに弥源次に会津若松城下にて安達太良山が素晴らしい山であることを漢詩にして流行らせ感心を惹きつけ、20年の時が過ぎるのを待ったのです。そして延享3年(1746)に深堀小屋(岳の湯)の人間を使って会津領の萱野に侵入し目立つように刈らせたのです。会津側の農民は代官所に訴え、ついに幕府の裁判に持ち込み、何年もかかって現地調査も何度となく行い宝暦5年(1755)12月2日に裁決されたのです。現在の領界は船明神山から石筵川上流を二本松領になっていますが、会津藩から伝わっている石積み壇とされている石積みのケルンは安達太良山頂から牛の背の峰に多くありここは二本松藩領です。岩井田昨非は藩政改革の為に招聘された儒者ですので本宮と郡山の平野を潤す五百川の源流を二本松藩領にするために仕組んだ作戦であったと私は解釈します。因みに貴船神社は1000年ほど前は船明神山に在ったと神社縁起には伝わっており、岩井田昨非の策の神髄のヒントとなりました。写真は会津側から見た沼尻峠こと二本松藩馬の背です。今は立ち入り禁止です
二本松少年隊に思いを馳せて
世界各地で内戦が勃発しています。巻き込まれて民間航空機がミサイルで撃ち落とされ事故調査どころか遺体の収容までが思うようにできない状態が続いているこの頃です。兵器が発達した中で内戦は、幼い子供たちまでもが大量に殺戮されているのをみると何らかの方法で止める方法がないのかとつくづく思います。
いつもこの時期になると、戊辰戦争で戦った二本松少年隊のことに思いを馳せます。昨年はNHK大河ドラマ『八重の桜』の二本松少年隊が登場したのが6月でしたので、日本中の多くの人が、西軍が会津を攻める前に二本松城が落され、二本松少年隊に戦いぶりを認識して頂いたのではないかと思います。
  昨日7月29日は二本松城落城の日です。明け方に西軍の一隊は本宮から二本松を目指しました。そこを迎え撃ったのは砲術隊隊長の木村銃太郎に率いられた少年隊の一隊でした。西軍を迎え撃つ場所は大壇口、この場所は現在の高速道路二本松インターを出て500mほど東側に来た小高い丘です。左側手前には消防署の高い櫓が立っており二本松藩の領地を360度見渡せ場所です。
  ここが西軍を砲術隊が迎え撃った場所であると思うと「さもありなん」ですが、迎え撃つ二本松の砲門は小ぶり口径8センチ砲で射程距離は500〜800メートル程度でした。
 木村隊長は敵の進軍を見ながら「まだまだっ…、よく引き付けてから打つのだ…」。その内、相手方から攻撃がはじまり、それでもよく引き付けて「打てーっ…」と号令、敵の真ん前で砲弾が着弾…惜しくも敵に命中させることはできなかったものの隊列を乱れさせたのでしょう。
 一方、野津隊長率いる西軍は射程距離800〜1200m口径20cmの大砲も二本松には運ばれたようですし、鉄砲もスペンサー銃などの近代的銃で武装され兵力の差は歴然、月とすっぽんの差の戦いでした。
  迎え撃つ大壇口の少年隊のところにも敵の玉は確実に届き、畳床の盾は簡単に貫通、木村隊長も敵の砲弾に倒れてしまいました。「木村先生っ―!」「俺はいい、介錯してくれ…」。泣く泣く少年隊士は木村隊長の首を落し、丹羽家大隣寺まで髪を持ち泣きながら退却したそうです。
  白河の守り主力部隊に属していた青山助之丞と山岡栄治は、白河からの退路本宮まで来たがこちらも攻め落されており、山道を通りながら大壇口の支援に間に合い、木村隊長らの死で大壇口を守るべく相手陣に切り込んでいったようです。獅子奮迅の戦いで、わずか2人で敵陣を9人も倒し、野津隊長も傷を負い、一時は西軍の足を止めるまでであったといわれています。しかし、多勢に無勢、戦況は明らかに悪く、二人とも敵弾に倒れてしまいましたが、少年隊が退却するのを助けたとも言われています。この、青山、山岡の二本松藩士は大壇口決戦の働きから後世に伝えられ、大壇口には二勇士の顕彰碑が立っています。
  写真は二本松藩歴代藩主の墓所です。二本松少年隊16名の供養塔と戊辰戦争戦死者群霊塔に参拝され、合わせてご参拝をお薦めします。
くもと遊びにお出でください
6月中旬になったら、気候が安定してきたように感じられます。安達太良山の上に小さな雲が浮かんでいます。梅雨の晴れ間から見える安達太良山は残雪が例年より多いようです。5月中旬から7月にかけての安達太良山には全山ツツジ科の植物が花を付けます。少し雨が降って靄がかかっている時のヤシオツツジの色は、白の世界にいきなり幻想的な紫色が素敵に見えます。五葉松平、仙女平、僧悟台などのサラサドウダンは太く大きな株にたくさんの可憐な花をつけます。6月下旬から7月上旬にかけてはハクサンヤエシャクナゲの大輪の花が五葉松平や勢至平に咲き競います。ハクサンヤエシャクナゲの株も大きく登山道にはみ出して来る様はまるで人間の進入を拒否しているのではと思えるほどです。イソツツジは随所に見られますが、シャクナゲをかなり小ぶりにした感じの枝と花を付けるので慣れないと見落としてしまいそうになります。頂上付近に近づくとミネズオウ(峰蘇芳)やジムカデ(地百足)がガレ場を這うように地表を覆います。
前置きが長くなりましたが安達太良山はツツジ科の植物の垂直分布が狭い範囲で見られる特異な山です。日本百名山と花の百名山の2つの冠がついた山として多くの登山者に親しまれておりますが、ツツジ科の植物の垂直分布に特徴があることは意外と知れ渡っていません。安達太良山の8合目・標高1500m付近からは灌木地帯になり、尾根筋はほとんど植物の生えないガレ場です。余り高くない標高の山ですが、尾根筋の景観はアルプス一万尺の感じであると言われ人気の山の所以です。古代には万葉集にも読まれ、高村光太郎の『智恵子抄』の「ほんとうの空」として空の青さと山並みの美しさは他所に引けをとらないと自負いたします。
最近の話題としてはNHK朝ドラ『花子とアン』放映のお陰か、「ひょっとしたら、お宅に柳原白蓮の書がありますよね!」とか「ほんとうに白蓮さんがお泊りなのですか?」のような問い合わせがきます。白蓮の書は1階の暖炉の横の大きな額です。
『岳 くもとあそび 風とうたへる 春秋の 世の塵しらぬ やまの湯の宿 白蓮 昭和27年 初秋  於 東館』
今までは館内の普通の飾り絵と同じ感覚で気にも留めませんでした。長い間お客様の目に触れ、お客さまからのご指摘で大事な書であることを再認識しました。ありがとうございます。
どうして、岳温泉のあづま館にお出でになったのは今となってはよく分りませんが、二本松出身で日本の耳鼻咽喉科の草分けである久保猪之吉博士との関係かもしれません。私の母が白蓮さんと昔のスキー場まで散策した時に詠んだ歌のようです。写真は白蓮の歌の書です。安達太良の地は世の塵を知らぬ美しさを保っています。シャクナゲの花が揺れる夏の山にお出でください。
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