やっちゃんのあぐだもぐだ
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山の安全を祈ります
突然の御嶽山噴火には驚きました。山頂付近にいた沢山の登山者のことを思うと心が痛みます。私はちょうど9月27日の土曜日の昼頃に猪苗代に向かっている時にNHKのラジオニュースで聞き、たまたま115号線土湯トンネル手前で吾妻山一切経の噴煙がことのほか大きく見えたので気になっていたのですが、まさか御嶽山が突然爆発するとはショックでした。今年は安達太良山で開かれたトレイルランニングレースの日程が3週間前倒しになった理由が御嶽山のトレランが9月にさらに一レース追加になった為だと聞いていたのでひょっとしたら1000人以上のトレイルランナー達が御嶽山に入っているのではと思ったからでした。確認したらそのレースは2週間前にであったことを知り一安心でしたが、現在の状況で多くの登山者が犠牲になったとのこと、心からご冥福をお祈りいたします。
御嶽山に登ったことがありませんが、実はトレランがらみでこの山のことは以前から気になっており、今年の4月に御岳2240という名のスキー場を訪ねてみました。このスキー場は標高1680m以上のところにあり4月はまだシーズン真っ盛りのスキー場です。一度このスキー場を訪ねてみたかった理由の一つは、1998年の長野オリンピックを境にスキーアルペン競技の高速系レースが日本では開催されなくなり、ようやく今年4月に海外の高速系の招待選手を招き『御岳2240』で開催したことを耳にしたからでした。ソチの冬季オリンピックでは新種目の金メダリストが出ても、伝統的アルペン競技からメダリストが出ないことにヤキモキしていたスキー大好き人間の思い込みからです。1952年のコルチナ・ダンぺッツォ・オリンピック銀メダリストの猪谷選手は回転競技だけが得意だったのではなく滑降も大回転も強かったようなので、スキーの技術系種目だけをトレーニングしても絶対にメダルには届かないだろうと思っているスキーキチの一人です。御岳2240スキー場が高速系種目の競技再開に踏み切ったことに日本のスキー競技のレベルが上がるキッカケになると思っていた矢先の御嶽山噴火は晴天の霹靂でした。通常のシーズンと同じようにスキーヤーが多く訪れるよう平常に戻ってもらいたいものです。
さて、安達太良山のこと。トレランレースの人気が高まり9月6、7日に行われたあだたらトレラン50Kの参加者は700人を超える盛況ぶりでした。安達太良山も活火山であり警戒レベル1です。このトレランレースも沼の平噴火口の淵がコースになっているので突然の噴火があったらと思うと他人ごとではありません。噴火口に近い稜線には登山客のシェルターともいうべき避難小屋は鉄山の山頂付近にあるものだけです。50年ほど前までは矢筈ヶ森の避難小屋があったので復活再建築する必要があると痛切に感じます。写真は今年の船明神山でのトレラン風景。平常の山は素晴らしい景色です。いつも安全な山であることを祈ります。
岳山の国境紛争
世界各地で国境争いが目立つこの頃です。尖閣諸島や竹島は身近に感じるので何とか早く解決しないものかと思いますね。
  江戸時代に二本松藩と会津藩の領界争いがあり大岡越前守まで登場して100年越しで解決したお話があります。
  事の発端は丹羽家二本松藩と保科家会津藩が誕生した寛永20年(1643)8月。それまでは会津40万石に移封された加藤家が会津も安積・安達郡も治めており、山中にあったわが岳温泉の御先祖が沼の平噴火口周辺の硫黄や湯垢(湯花)の採掘、採取を行い、沼尻の湯の湯銭まで徴収していたのが、突然二本松藩と会津藩に領界を区切られたことにあります。
  1643年8月の幕府の記録には二本松藩が金五両にて二本松硫黄の運上が記載されており、二本松藩が経済的権利は持っていたようです。
この時から20年程たった寛文4年(1664)が第一回裁判です。この時は二本松藩と会津藩が幕府に持ち込んだところ控室にて会津藩役人の友松勘十郎が、二本松藩役人の丹羽右近正行に対して、「貴殿、この度の御用は会津領岳山の一件でござろうな…」と言われて、右近は「左様で……」と言いかけ、ハッと気が付き「…ではござらん。して貴殿の御用は二本松領岳山一件について……」と言ったとか言わないのやりとりで、間もなく幕府の役人が裁判の場に両藩の担当役人を誘導しようとしたところ、会津藩役人から有無も言わせず「武士に二言は無かろう…」と言われ、和議申立、裁判取り下げで会津藩の勝訴となり、丹羽右近は退廷し二本松藩公に詫びて責任を取り割腹して詫びたことに有ります。
  この事を二本松藩に享保19年(1734)に着任した儒学者の岩井田昨非が藩政改革ヒアリングで耳にし、そこから20年がかりで岳山(安達太良山)の領界を取り戻す話の展開となります。岩井田昨非の作戦は、20年後に裁判に持ち込み二本松藩を勝訴に持ち込むことでした。その中で、三尺彌源次という忍者のような身の軽い人物を使い、稜線に炭を埋め、会津藩との領界をできるだけ西側へ押し込むべく境界の曲がり角に真弓の木やユルの木を植えさせ、さらに弥源次に会津若松城下にて安達太良山が素晴らしい山であることを漢詩にして流行らせ感心を惹きつけ、20年の時が過ぎるのを待ったのです。そして延享3年(1746)に深堀小屋(岳の湯)の人間を使って会津領の萱野に侵入し目立つように刈らせたのです。会津側の農民は代官所に訴え、ついに幕府の裁判に持ち込み、何年もかかって現地調査も何度となく行い宝暦5年(1755)12月2日に裁決されたのです。現在の領界は船明神山から石筵川上流を二本松領になっていますが、会津藩から伝わっている石積み壇とされている石積みのケルンは安達太良山頂から牛の背の峰に多くありここは二本松藩領です。岩井田昨非は藩政改革の為に招聘された儒者ですので本宮と郡山の平野を潤す五百川の源流を二本松藩領にするために仕組んだ作戦であったと私は解釈します。因みに貴船神社は1000年ほど前は船明神山に在ったと神社縁起には伝わっており、岩井田昨非の策の神髄のヒントとなりました。写真は会津側から見た沼尻峠こと二本松藩馬の背です。今は立ち入り禁止です
二本松少年隊に思いを馳せて
世界各地で内戦が勃発しています。巻き込まれて民間航空機がミサイルで撃ち落とされ事故調査どころか遺体の収容までが思うようにできない状態が続いているこの頃です。兵器が発達した中で内戦は、幼い子供たちまでもが大量に殺戮されているのをみると何らかの方法で止める方法がないのかとつくづく思います。
いつもこの時期になると、戊辰戦争で戦った二本松少年隊のことに思いを馳せます。昨年はNHK大河ドラマ『八重の桜』の二本松少年隊が登場したのが6月でしたので、日本中の多くの人が、西軍が会津を攻める前に二本松城が落され、二本松少年隊に戦いぶりを認識して頂いたのではないかと思います。
  昨日7月29日は二本松城落城の日です。明け方に西軍の一隊は本宮から二本松を目指しました。そこを迎え撃ったのは砲術隊隊長の木村銃太郎に率いられた少年隊の一隊でした。西軍を迎え撃つ場所は大壇口、この場所は現在の高速道路二本松インターを出て500mほど東側に来た小高い丘です。左側手前には消防署の高い櫓が立っており二本松藩の領地を360度見渡せ場所です。
  ここが西軍を砲術隊が迎え撃った場所であると思うと「さもありなん」ですが、迎え撃つ二本松の砲門は小ぶり口径8センチ砲で射程距離は500〜800メートル程度でした。
 木村隊長は敵の進軍を見ながら「まだまだっ…、よく引き付けてから打つのだ…」。その内、相手方から攻撃がはじまり、それでもよく引き付けて「打てーっ…」と号令、敵の真ん前で砲弾が着弾…惜しくも敵に命中させることはできなかったものの隊列を乱れさせたのでしょう。
 一方、野津隊長率いる西軍は射程距離800〜1200m口径20cmの大砲も二本松には運ばれたようですし、鉄砲もスペンサー銃などの近代的銃で武装され兵力の差は歴然、月とすっぽんの差の戦いでした。
  迎え撃つ大壇口の少年隊のところにも敵の玉は確実に届き、畳床の盾は簡単に貫通、木村隊長も敵の砲弾に倒れてしまいました。「木村先生っ―!」「俺はいい、介錯してくれ…」。泣く泣く少年隊士は木村隊長の首を落し、丹羽家大隣寺まで髪を持ち泣きながら退却したそうです。
  白河の守り主力部隊に属していた青山助之丞と山岡栄治は、白河からの退路本宮まで来たがこちらも攻め落されており、山道を通りながら大壇口の支援に間に合い、木村隊長らの死で大壇口を守るべく相手陣に切り込んでいったようです。獅子奮迅の戦いで、わずか2人で敵陣を9人も倒し、野津隊長も傷を負い、一時は西軍の足を止めるまでであったといわれています。しかし、多勢に無勢、戦況は明らかに悪く、二人とも敵弾に倒れてしまいましたが、少年隊が退却するのを助けたとも言われています。この、青山、山岡の二本松藩士は大壇口決戦の働きから後世に伝えられ、大壇口には二勇士の顕彰碑が立っています。
  写真は二本松藩歴代藩主の墓所です。二本松少年隊16名の供養塔と戊辰戦争戦死者群霊塔に参拝され、合わせてご参拝をお薦めします。
くもと遊びにお出でください
6月中旬になったら、気候が安定してきたように感じられます。安達太良山の上に小さな雲が浮かんでいます。梅雨の晴れ間から見える安達太良山は残雪が例年より多いようです。5月中旬から7月にかけての安達太良山には全山ツツジ科の植物が花を付けます。少し雨が降って靄がかかっている時のヤシオツツジの色は、白の世界にいきなり幻想的な紫色が素敵に見えます。五葉松平、仙女平、僧悟台などのサラサドウダンは太く大きな株にたくさんの可憐な花をつけます。6月下旬から7月上旬にかけてはハクサンヤエシャクナゲの大輪の花が五葉松平や勢至平に咲き競います。ハクサンヤエシャクナゲの株も大きく登山道にはみ出して来る様はまるで人間の進入を拒否しているのではと思えるほどです。イソツツジは随所に見られますが、シャクナゲをかなり小ぶりにした感じの枝と花を付けるので慣れないと見落としてしまいそうになります。頂上付近に近づくとミネズオウ(峰蘇芳)やジムカデ(地百足)がガレ場を這うように地表を覆います。
前置きが長くなりましたが安達太良山はツツジ科の植物の垂直分布が狭い範囲で見られる特異な山です。日本百名山と花の百名山の2つの冠がついた山として多くの登山者に親しまれておりますが、ツツジ科の植物の垂直分布に特徴があることは意外と知れ渡っていません。安達太良山の8合目・標高1500m付近からは灌木地帯になり、尾根筋はほとんど植物の生えないガレ場です。余り高くない標高の山ですが、尾根筋の景観はアルプス一万尺の感じであると言われ人気の山の所以です。古代には万葉集にも読まれ、高村光太郎の『智恵子抄』の「ほんとうの空」として空の青さと山並みの美しさは他所に引けをとらないと自負いたします。
最近の話題としてはNHK朝ドラ『花子とアン』放映のお陰か、「ひょっとしたら、お宅に柳原白蓮の書がありますよね!」とか「ほんとうに白蓮さんがお泊りなのですか?」のような問い合わせがきます。白蓮の書は1階の暖炉の横の大きな額です。
『岳 くもとあそび 風とうたへる 春秋の 世の塵しらぬ やまの湯の宿 白蓮 昭和27年 初秋  於 東館』
今までは館内の普通の飾り絵と同じ感覚で気にも留めませんでした。長い間お客様の目に触れ、お客さまからのご指摘で大事な書であることを再認識しました。ありがとうございます。
どうして、岳温泉のあづま館にお出でになったのは今となってはよく分りませんが、二本松出身で日本の耳鼻咽喉科の草分けである久保猪之吉博士との関係かもしれません。私の母が白蓮さんと昔のスキー場まで散策した時に詠んだ歌のようです。写真は白蓮の歌の書です。安達太良の地は世の塵を知らぬ美しさを保っています。シャクナゲの花が揺れる夏の山にお出でください。
山が呼んでますよ!
いつもですが4月は慌ただしく過ぎて行きます。積雪状況が気になるスキーシーズンが終わった途端、桜情報がイッパイ飛び込んでくるのが4月です。立春過ぎの2月中頃から花粉情報が飛び交い、3月に入ってからは桜情報がTVの画面を占領します。スキーシーズンが終わったと同時に桜の開花情報が目白押しになります。スキー場立地にも恵まれた福島県ならではの桜情報の露出度上昇で何となく心が浮かれてきます。
さらにフェイスブックのお陰で、世界中の情報が瞬時に入ってきます。私の場合はフェイスブック友達にスキー関係者が多く、世界のスキー場情報が飛び交い、4月はまだスキーシーズン真っ盛りと錯覚してしまいます。ウィスラーカップなるアルペンスキー世界ジュニア大会は毎年4月上旬に行われ、日本からもU14とU12の選手が派遣され話題が広がります。ちなみにU12クラスは本年も総合優勝し、3年連続の栄冠を手にしました。U14になると欧米選手との差が開くことなど瞬時にわかります。日本でもこの時期は選手にとってはシーズン中。御嶽山では長野オリンピック以来の16年ぶりで高速系競技が行われたようです。標高2000メートル以上のスキー場はまだまだ真冬の様相を示しています。2000m以下でも山形県にある月山スキー場は4月にオープンです。それまでは積雪量が余りにも多くスキー場営業ができないらしく7月までがスキーシーズンであるのは別格です。
  雪の話題と桜の話題が重なるから、4月が慌ただしく感じられるのでしょう。今年は余計にせわしなく感じるのは桜の開花時期が北も南も近づいているからなのだと思います。ちなみに二本松霞ヶ城址の桜の満開は4月16日頃、岳温泉桜坂の満開が4月24日頃、両所は標高差330mあり、平均気温の4月の前30日は7.9℃の上昇、標高差による気温差2℃程度は約8日間の差で、ほぼ天地明察です。盛岡市が満開であったのは4月25日頃ですが岳の桜坂とほぼ同じなのが不思議だと思ったら弘前城も29日には満開になったとか。今春は緯度に沿った気温の上がり方は北も南もほぼ同時に感じます。偏西風の蛇行のせいでしょうか?反面、標高による気温差は意外に大きく、底部の桜の咲き方と高い標高での桜の咲き方は例年通りのようです。
  それにしても、今年の春は桜の話題が豊富です。福島県を上げての観光キャンペーンが4月、5月、6月と催され、各地で自慢の一本桜などが『オラの部落の○○桜だ』などと、人間を巻き込みながら咲き競っていました。岳のソメイヨシノは今日の雨ですっかり葉桜になりましたがヤマザクラと八重桜が咲き始めています。明日からはまた晴天が戻り新緑が五月の空に萌え出します。写真は4月26日の安達太良山の残雪、ゴンドラも動き始めましたよ。山開きは5月18日、湯川渓谷と奥岳間のシャトルバスとデマンド乗合タクシーも運行します。山が呼んでます、お待ちしています!

冬山の今昔
3月になってもこんなに雪の多いのは初めてです。お蔭で、例年以上に雪深い安達太良山に入る人が多く、湯元にある『くろがね小屋』の宿泊客がかなり増加しています。昨年暮れのBS・TBSで冬の安達太良山が全国放映されたこともあり、山岳関係の雑誌にもよく取り上げられていますが、これほど厳冬の安達太良に入山者が増えるとは驚きです。厳しい大自然の中に身を投じるような冒険心が誰にでもあって、最近はそれに火がついているのかもしれません。ちなみにスポーツ店に行くと、冬のスキーやスノーボードコーナーよりも登山用品コーナーの売り場面積が広くなり、商品品揃えが豊富なのには驚かされます。
さて、岳温泉の話を再び。岳温泉の歴史的記述は863年(貞観5)に遡りますが、約500年前の1496年(明応5)に「狩人が発見」後は畠山家の重鎮・秩父道灌平近平により所有開発されました。
畠山家が奥州管領として二本松の田地ヶ岡着任が1346年(貞和2・正平2)、3代目の国詮で復活し奥州探題に補任(1414年・応永21)され4代目満泰により二本松城として白旗峰に城が築かれちょうど今年で600年になります。畠山家に関しては、天正13年(1585)に二本松城の畠山義継が塩松城(岩代)の伊達輝宗に和睦交渉に出かけ折、隙を突いて伊達輝宗を拉致逃走し、事件を知った伊達正宗が急遽駆けつけ父輝宗と畠山義継の両人共射殺した話は粟ノ須の変として有名です。
この畠山家の重鎮・平近平が創建したのが光現寺(天文年間・1550頃)であり岳温泉の湯守の直系は今でも檀家になっています。栗が柵舘主であった平近平は伊達正宗に畠山家が滅ぼされた後も、温泉の権利を有し1617年頃(元和年間)から温泉地開発が始まっています。温泉湧出地は標高1400m地点の旧噴火口付近にあり地形が険しく、土砂崩れにも度々見舞われました。1670年(寛文10)には雲堂和尚が山止めの祈願をし、150年間の山中での歌舞音曲を許し繁栄を祈った梵字石が刻まれ残っています。しかし雲堂和尚の法力の解けた154年後の文政7年(1824)に山崩れで陽日(元岳)温泉が埋没し、その後の引き湯、移転、復興の繰り返しの温泉になっているのが岳温泉の特異なところです。
陽日温泉時代の温泉営業は八十八夜から秋分の日までと決まっており、冬期間の温泉は休業。ベースキャンプの深堀村にて炭焼き作業が中心の生活であったようです。丹羽家入府(1643年・寛永10)以降に深堀村の冷涼で良い水があることの立地と冬期間の特産品づくりとして凍り餅が製造され、二本松藩により凍餅奉行がおかれ、幕府への献上品としても使われました。
  今年、当館は創業80周年を迎えます。二本松藩での祝い事に使われていた『すあま』を創業記念として凍り餅を少しまぶしてお茶請けにお出しいたします。今なら冬山登山の携行品にもいいかもしれません。写真は今年3月の振り小沢付近のスノーシューでの登行姿。スノーボード、スキー、スノースクートを担いで歩く三人三様の装備にはびっくりします。装備がよくなり厳しい環境の中でも快適な下りができることでしょう。
水戸黄門公と湯守のこと
やっぱり、異常気象ですね。今まではあまり見なかった気圧配置が頻繁に現れるようです。昔は台湾坊主と言っていた南岸低気圧が発達し過ぎ、関東甲信越に2週続けて豪雪をもたらし、福島県の中通りや浜通りも大雪でマヒの状態です。ソチオリンピックのスキー競技会場にも時ならぬ雨が降り世界中が異常気象だと思われます。
さて、前回の続きで水戸黄門公にもお泊り戴いたお話。ご宿泊日は元禄11年(1698)の8月に4、5人にて陽日(元岳)温泉にお泊りのようです。この時の黄門さまの年齢は満70歳、湯守の平近平が黄門公に気づき懐紙に書いたのを佳紙に書いていただいた歌が『山の奥にかゝる男をミちのくのの二本松なら又も近平』です。湯守近平が印童をお願いしたところ携行せずと断られたとのこと。この時に名づけられた沸き水が『金明水』であり、今も引き湯脇の登山道に水飲み場があります。
二本松寺院物語には、大隣寺九世の千厳智拙和尚が元禄年間に黄門公が病になられた折、水戸の高僧・黙室風外和尚が嶽(岳)温泉の薬湯の湯花を求めに来られたとあります。黄門公は薬効空しく元禄13年12月(1701年1月)に72歳6か月で他界されたようですが、岳の湯の湯治のあとに湯花の薬効を病気の治癒に使われていたとは驚きです。黄門御一行ご宿泊の136年後・文政7年に、鉄山(1708M)の山崩れで温泉地全部が埋没し二百数十名の死傷者を出した大参事がありました。その時の遭難者リストには水戸藩士族14名、水戸一般13人、常州2名、鉾突2名と合計31名もあり、いかに水戸藩のお客様にご愛顧頂いていたかが推察できます。
この文政7年の山崩れ事故の後、すぐに再興なったのが十文字岳温泉です。この時の引き湯距離は約6キロ、湯樋は松材の2間物(3.6m)に4寸又は3寸(12〜9p)の樋を掘ったもので土中に埋めて引いてきたようであり、源泉は熱ノ湯と滝ノ湯からの二本樋で来ていたとも言われており、御殿湯の下に惣熱湯、総滝湯と記述もあり高温、中温の二線引き湯の可能性が高いと思われます。ちなみに文政12年(1829)に二本松藩医の宇多玄微が江戸の宇田川榕庵に温泉分析を依頼したのは2本の陶器瓶であり、十文字岳2本線引き湯は可能性としては高い気がします。復活なった家並みは見事な総檜造り2階建てであり、江戸の吉原とも見紛うようだとの話も残っています。残念ながらこの十文字岳温泉は42年後の慶応4年(1868)春には、もぬけの殻となり、西軍の拠点になることを恐れ焼かれてしまったのです。長い温泉の話の続きは次回に続けたいと思います。
写真は豪雪の直後の温泉管理の雪の穴、深さ6mもあるようです。真冬でもこうやって悠久の温泉を守ってもらっています。感謝感謝です。気を付けてください。
地球温暖化と岳温泉の話
二本松に下ると、「今年は雪が無くていいですね!」と声かけられます。
「いや、岳から上は雪があり、特にスキー場から上は例年より多いです」と応え、「やっぱり、上層と下層空気の温度差が極端に違うようです」と、知ったかぶりします。
私は、生れも育ちも岳温泉だから、異常気象と地球温暖化現象を肌身で感じると断言できます。ついこの間までは、大寒の頃に雨が降るようなことは無かったと記憶しています。
2日前までは自宅周辺の空き地は真っ白の雪の原でした。しかし、昨日の気温が8℃くらいになり夕方からは激しい雨で地肌丸出し、今朝はまた薄っすらと雪が積もっており季節が一か月も早く進んだかと錯覚しそうでした。ちなみに気象庁観測開始からの平均気温データは、1876年が13.6℃で2013年が17.1℃と、137年間で3.5℃も上昇しています。平均気温が15℃代であったのは1977年まで、その後は34年間で1.1℃の上昇です。岳スキー場開設時の1929年の平均気温は14.3℃ですの1876年から53年間で0.7度の上昇ですが、スキー場開設時点からは84年間で2.8℃も上昇しています。この時の岳スキー場底部は標高650m、現在のあだたら高原スキー場ゴンドラ乗場が950m、標高差300mは気温1.8℃分ですが標高の高いところへ移動しても温暖化に追いつかれてしまいました。1月末のこの数日間の激しい気温差は体調やメンタル面でも影響します。大好きなスキーが追い詰められているように感じます。温暖化による寒暖の激しさに影響され、自分がキレることのないように注意したいと思います。
キレそうになったら温泉でノンビリする事が一番。温度がまったく変わらない悠久の温泉が『岳の湯』です。
岳の湯について最初の歴史的記述は863年(貞観5)に小結(こゆい)温泉神、そして897年(寛平9)に小陽日(こゆい)温泉神としての官位を賜った時です。その後、500年間近くブランクがあり1496年(明応5)に狩人にて発見、奥州探題畠山家重鎮の平近平が元和年間(1671年頃)から開発を始めたとの言われています。また、大玉村の相応寺縁起には岳温泉は807年頃(大同年間)に徳一大師が薬師如来の肌から出ている湯で猪も猟師も傷を癒していたので湯前神を祀ったとの謂れが残っており、岳温泉神社春祭には相応寺住職が祭祀となります。秋祭りは岳温泉熊野神社として貴船神社宮司が祭祀となる神仏合祀の神社です。
二本松寺院物語には、二本松藩丹羽公菩提寺である大隣寺九世の千巌智拙和尚の時、水戸の黄門公が病になったので嶽温泉の湯の花を求めに水戸の高僧黙風外和尚がお出でになったとの記録があります。元禄11年(1698)には岳の湯に湯治に来たと言う話も伝わっていますが(相生集)、満70歳の黄門さまに山中の岳の湯までお出でいただことは素晴らしいことです。
岳の湯は1824年(文政7)に山崩れで全滅し、翌々年に6km引き湯をして移転復活してますが、この時はシーボルトの弟子の宇田川榕庵に二本松藩医の宇多玄微が温泉分析をしてもらっています。十文字岳温泉以降の話はいずれ詳しく書きます。写真は湯元付近の冬景色です。名物のくろがね焼を焼いている玉川屋の専務のFacebookから無断で拝借しました。素晴らしい写真ですね!8kmの引き湯を守ってもらってもいます。
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