やっちゃんのあぐだもぐだ
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日展のこと
第37回日展が上野公園の東京都美術館開催されています(11月2日〜11月23日)。さてこの日展なる日本最大の美術公募展はわが二本松に大いに関係があります。会長は二本松出身の大山忠作画伯、そして理事長は彫刻家の橋本堅太郎先生(現、東京学芸大学名誉教授)であり、二本松の血が日展の盛衰を握っているといっても言い過ぎでないと思います。先日、橋本堅太郎後援会主催の『橋本先生と日展を見る会』に私も参加し全国から応募された作品を観てまいりました。橋本堅太郎後援会の副会長を父が勤めている関係上、私は副会長代理でした。ちなみに会長は元市長の大河内鷹さん、もう一人の副会長は現、市議会議長の斉藤元さんですが事務局長兼任というもったいないような陣容です。後援会の陣容以上にもったいないのは、事業の一つに橋本堅太郎先生を囲む旅行会が毎年行われ、先生ご夫妻と一緒にしかも解説付きで各地の国宝になっている美術品を観賞する旅行ができることです。残念ながら、私はまだ一度も参加したことはありませんが、父たちは京都や奈良などで、普段一般には直接近づけないような国宝級の作品を堅太郎先生の解説付きで毎年堪能しています。母曰く、「まるで、大学のゼミナールみたい!…」な旅行らしく、橋本先生の底深い人間性がにじみ出るお話にいつも感動するそうです。今回の、堅太郎先生の作品名は『日ざしを追う』ですが、奥様が病に倒れられ長い闘病生活での思いを作品にされたとのこと、今回の後援会総会に出席されるため久しぶりにわが宿にお泊りいただき、ご自分の作品である甲子大黒天(昭和59年作)にお参りし、また忙しく日展会場に向かわれたようです。ちなみに岳温泉神社のご神体は薬師如来像、こちらはお父様の橋本高昇氏の作品です。また、1996年の岳温泉復興90周年事業には、原画・大山忠作先生、彫刻・橋本堅太郎先生による共同作品である岳温泉十二支めぐりを特別のご好意で作っていただきました。今考えると冷や汗ものです。お二人そろって日展の会長と理事長になられ、期せずして日本に唯ひとつの版画でめぐる散歩コースに最大級の箔が付いたことになります。2007年に迎える日展100周年を大山・橋本両先生のコンビで迎えられるようです。ちなみに、来年2006年は岳温泉復興100周年、元旦に『復興100周年記念初日の出ゴンドラ』が5時30分より動きます。あだたら高原スキー場で初日の出を拝みに早起きしませんか?
ついでに温泉神社で甲子大黒天にも参拝され十二支めぐりもお楽しみください。
十文字岳温泉再興候補地検分記
10月30日、岳文化協会のメンバーと『岫(クキ)下』なる場所の探索に行ってきました。この地名は元岳の山崩れによる全滅(1824年)の後、移転先候補地として挙げられた2ヶ所のうち1か所の名称です。我々のご先祖である深堀村住民の進言により、一度はテーブルの上に乗った幻の岳温泉再興地であります。その場所が実際にどの辺りであったかを推測するのは胸踊ることでした。この岫下なる地名が急にクローズアップされるようになった理由は、私の安達高校時代の恩師・若林伸亮先生のお力によります。先生は本宮町町史編纂委員などもお勤めになり郷土史研究家としてもご活躍です。2年前、二本松藩丹羽公入府360年記念事業の一つとして『十文字岳温泉復元のための基礎調査』を編纂していただきました。お蔭で、東北一繁栄したと言われ、戊辰戦争で消滅した十文字岳温泉(1826〜1868)の様相が明らかになりました。その中の今泉文書(郡山市歴史資料館所蔵)に収められていた180年前の絵地図をもとに『岫下』なる温泉移転候補地を現在の地図と照らし合わせの実地探査はロマン溢れることです。めったに立ち入る事のない山道を歩き、辿り着いた場所は紅葉のきれいな静寂の地でした。同行のメンバーからは色々な意見が出され、『岫』の持つ意味(〜山のいただき〜山中の洞穴)から、昔から熊の穴と呼ばれている現在の二本松市第一水源が『岫』であり、その下部の比較的平坦なところが『岫下』であろうという一応の結論に落ち着きました。余り上部では安達太良の寒風が吹きすさび(写真)肌を刺します。岳温泉再興地の『岫下』案非採択の理由は、ここが御用水(二合田用水)の取り入れ口上部であり、かつ冬期間の積雪が多くオールシーズン営業に難しいとの判断からでした。検討の結果、3kmほど下部に場所が選定され十文字岳温泉再興になったわけです。この事業は二本松藩の一大事業であり、街並み作りやテナントの配置など、私たちにも大いに参考になります。おりしも、来年は岳温泉が現在地に復興して100周年です(明治時代は深堀温泉として営業。こちらは明治36年に大火全焼)。様々な事業を岳温泉挙げて実施する予定ですが、さらに100年先の照準を見定め、地域ぐるみで全国一の温泉地づくりにも取り組みます。変わらぬご支援をよろしくお願い致します。
『戦国の雄から二本松藩主へ』展開催中
「二本松藩主として知られる丹羽氏は、じつに数奇な運命をたどった戦国大名のひとりです。……」というキャッチコピーではじまる丹羽家秘蔵資料展が開催中です(期間;10/15〜11/27・場所;二本松市歴史資料館)。昨日、開場式テープカットがあり十八代藩主の丹羽長聰(ながとし)様も二本松にお出戴きました。丹羽家からは代々伝わる鎧、書簡、掛け軸、硯箱、膳など366点ほどを寄託され、今回は67点が展示されています。初代長秀公の書簡はもちろんの事、豊臣秀吉朱印状や前田利長起請文など歴史的に貴重なものばかりであり、特に今回寄託されたのが長秀公着用の甲冑です。初代長秀公、二代長重公が実戦で着用したものであり、実戦の弾痕が3箇所もあります。銅版を幾重にも重ねた鎧は貫通しないのだそうです。金花猫塗唐冠兜と名付けられた兜の風格の違いに圧倒されます。猫の顔のデザインは魔よけの意味があるとの事ですが、戦国の世に生き残って織田信長の重鎮であった123万石大大名の風格を、この私でも感じたような気がします。丹羽長聰様が挨拶の中で「子供の頃にこのカブトを被り三輪車に乗って遊んでいた…」などと言っておられましたが、戦国大名の子孫の遊びは我々庶民とはまるで違っていたようです。前日に我が宿にお泊りいただき二本松史跡保存会(会長・鈴木弘治氏)の役員としてご一緒に会食をさせていただくことができましたが、世が世ならば、宿六の私は敷居の外側に居るべき立場です。平和な時代に生れてほんとうに幸せです。菊人形もいよいよ本番。二本松歴史資料館にも立ち寄っていただき、二本松の歴史をより深く感じていただければと思います。写真は資料館での丹羽様(右側)と奥方(左から2番目)の厚子様です。史跡保存会の鈴木会長(左端)と共に根本文化課長の説明に耳を傾けられ談笑されました。今回の企画展を機に、さらに丹羽家の歴史が詳細に解明され二本松藩がさらにクローズアップされればいいなと思います。
岳温泉学童疎開者のシダレザクラ植樹式
10月7日に岳疎開学寮連絡会の皆様の手で、シダレザクラの植樹式が行われ、鏡が池の隣にある緑が池畔の遊歩道沿いに11本のシダレザクラが立ち並びました。岳疎開学寮連絡会の皆様が「戦禍をくぐり抜け現在まで生き長らえることができた恩返しの一端として、平和こそふさわしい温泉の景観に寄与したい」との思いで今回の祈念植樹になったものです。岳温泉が疎開学童を受け入れたのは太平洋戦争の末期、昭和19年6月25日から20年10月27日までのことです。東京・牛込区内(現新宿区)の国民学校11校の学童383人(引率教師、寮母も含む)が岳温泉の9旅館に配宿されました。幼い子供達にとっては学童疎開の体験は、つらく寂しい不自由な生活だったようです。親兄弟から離れて、心細い上に食料不足でハラペコではあったものの、地元関係者の温かい気遣いに癒されて、60年後の今もなおあの時の肉親のような微笑を忘れることができないとも語っておられました。祈念植樹式の前日に扇屋旅館で行われた懇親の夕べには、戦後っ子の私も同席し色んな話を伺うことができました。「戦争末期の1年半の岳疎開が無ければ今の私たちが無かったかもしれない」、「東館のおばさんは厳しかったよ」、「始めてスキーをして地元の子供に岳弁で「さってろ!…(邪魔だからドケの意味?)」と言われた」など楽しく語ってくださいました。私の祖父一二が食糧の調達には大変苦労したと話していた事ともダブり、旅館や温泉地の原点は、限られた条件の中で精一杯のおもてなしをすることであることを再認識できた次第です。改めて、岳疎開学寮連絡会の皆様に御礼申し上げます。
 P/S 岳疎開学童全383人の内、未だ251人の方々とは連絡が取れないそうです。下記に連絡先を記します。
岳疎学寮連絡会  会長  清水武二   副会長 斧田太公望
               事務局  安倍忠男  大植桂子
〒274-0814 船橋市新高根4丁目15番17号  電話&Fax 047〜466〜8508 安倍忠男
安達太良山・紅葉絶景
一週間ほど前、「兄貴!サライの表紙に振子沢が出ているよ!」と東京に居る弟がいきなり電話をくれました。今日ようやく雑誌『サライ』を手に入れてみたら、『忘れじの紅葉絶景』のタイトルの見事な青空と紅葉の写真でした。普通の人は紅葉の写真に惹かれて雑誌を買うはず、弟が「振子沢がでているよ!」と言ってのけたのはやはりふるさとの山であり、振子沢が安達太良山中で格好の山スキーゲレンデなる場所だからだと推測します。20ページの見開き写真全体はさらに素晴らしく、青空と少し雪が被った稜線と、五葉松平から山頂にかけての赤、黄、橙、緑に見事な配色につい吸い込まれてしまうような見事な写真です。22ページには『紅葉する木の種類と、その理由』というタイトルで岩槻邦男先生の解説があります。その解説の中に「…また、急激な温度差があると離層(落葉前にできる葉と茎をつなぐ葉柄基部にできる層)が一時に作られ、葉緑素が一斉に分解するので、より鮮やかな赤や黄を呈する…」とありますが、我が安達太良山の秋の気候は時としてキリっとした寒さが来るのが特徴、「だから紅葉が抜群にキレイなのです」と断言してもいいかもしれません。24ページには『安達太良山』のタイトルで登山家の田部井淳子さんが、詳しく解説されています。こんな風に記事で我がふるさとの安達太良山が取り上げられるのは有難いものです。安達太良山へは奥岳からゴンドラで一気に1350m地点まで行くことができます。ゴンドラ山頂駅からわずか徒歩5分で『忘れじの紅葉絶景』の大パノラマにお目にかかれます。是非、この秋も安達太良山へおいでください。
実話『コスモ紙幣は御守』
 Mr.ISERIは、シアトルに来ると必ず馴染みのスタンドバーに立ち寄る。
オーナーとは友達付き合いになって久しく、ちょうどいい時に来たといわんばかりに
「久し振りだねー、Mr.ISERI。おもしろい紙幣を持っている人が居るから紹介するよ」と、入ってきたばかりのMr.ISERIへ、人懐っこい感じのA氏を紹介した。
「始めまして、Aです、よろしく。実は、この紙幣を持っていると、人との出会いがいいんです。色んな出会いがあるし、商売もうまく行くのでお守りに財布に入れているんです!」とA氏はMr.ISERIにドル紙幣そっくりのお金を見せた。
「エーッ!!こ、これはニコニコ共和国の紙幣でしょう。僕はこれを作っている友人を知ってますよ」とMr.ISERIは自分が学生時代に夏合宿で来ていた岳温泉のことを話した。
「アメリカンフットボール部の夏合宿はいつも彼の旅館でしたので、知ってるなんてもんじゃありませんよ…シアトルでこの紙幣が縁でお話ができるのもコスモ紙幣のご利益ですね?」……

 この話は実話です。私の弟である智夫が、早大米式蹴球部の先輩であるMr.ISERIこと井芹さんに聞いた大変有難いお話です。A氏は岳温泉には来たことも無く、ある友人からもらったコスモ紙幣を大事に財布に入れているそうです。ちなみに、この紙幣は1982年7月から24年間も発行され続けています。ドル紙幣とそっくりのデザインですが、1ドル紙幣のアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの肖像部分に、ニコニコ共和国大統領初代大統領シロー・キムラの肖像が入ってます。ちなみに紙幣は100コスモ(=日本円100円)のみ、単位コスモの意味は秩序とか宇宙の意味ですがコスモスをニコニコ共和国の国花にしたからです。最近では地域通貨が経済活性化の一つの道具として着目されているようですが、『素晴らしい出会いを約束するコスモ紙幣』の効用はそれ以上ですね?きっと……
二本松藩とカンプラ
 7月29日は二本松城落城の日です。28日は霞が城にて二本松少年隊顕彰祭、29日には大隣寺にて墓前祭が行われ、戊辰戦争で若くして散った少年隊士の霊を毎年弔います。私はこの日には必ず馳せ参じ、霞が城をバックに演じる剣舞、居合などを観させていただきながら戊辰戦争の時代を偲ぶことにしています。
 さて、我が愛する二本松藩の秘話の一つをご披露します。カンプラの話です。異論、反論、新説など是非ご連絡ください。
 カンプラが二本松藩独特のジャガイモの名称だった奇説?(石川、岩瀬、磐城の一部でも使われて福島、伊達郡は使われていません)。一般的にジャガイモは伝わってきたところの名称が使われています。会津では天明の飢饉のとき栽培が奨励されキシイモ(九州)、シナイモ(支那)、ジャガタライモ(ジャワ)といわれ、小名浜地方ではセイダイモ(甲府経由で中井清太夫という代官が移入)と言われているようです。さて、二本松藩固有名称説の根拠は?二本松藩制時代の農作物のリストには米、大豆、小豆などは載っていますが一言もイモに関することは出てきません。ただし、1790年(寛政2)に、藩が馬鈴薯の種を買い入れ(杉田安斎家文書)、救荒作物として作付け奨励しても、年貢作物優先の立場から、不徹底の政策だった記録が最近見つかりました。会津藩では公式に飢饉用作物として奨励された記録があり、おかしいと思いませんか?さて、二本松藩には蘭学に関する学者が多いこと、小此木家、劉家、宇多家などなどです。文政七年(1824)の岳山変事の時の救出には小此木天然などの大救出作戦の記録があります。さて、ここから推測ですが小此木天然の祖父や劉氏(蘭学通詞)の二本松初代が入府初期(丹羽様の二本松入府は1643年。棚倉、白河、二本松と移封された)の頃から長崎のオランダ屋敷とは懇意で幕府に内緒にジャガイモの種を持ち帰って藩領内各地に植えていたと言う推理はいかがなものでしょうか。
 ちなみに、オランダ語ではアールド・アップル(土のりんごの意味)であり、オランダ人が出島に植えていたのを内緒で持ち帰れるだけの藩士がいたのではと推察します。
 素晴らしいことですね。天明、天保大飢饉の時に余り悲惨な話が二本松に無いのはカンプラのせいかもしれません。ちなみにカンプラの発音はアップルがアップラになりカンプラと訛ったと解釈されているようです。
 二本松周辺ではカンプラ野郎というと悪い言葉になりますが、幕府のご禁制食物だったからでしょうか?石川地方では、「お茶食べらっせ」と意味は「カンプラ食べていきな」の意味だそうです。こちらも隠語ニ聞こえます。
 このカンプラを何とか二本松藩の売り物にしてみたいものです。カンプラチップ・カンプラバター・カンプラポタージュ・カンプラコロッケなどいかがでしょうか。
 『あぐだもぐだ』が1カ月ほど空いてしまいましたが、頭がカンプラでいっぱいだったせいです。繰り返しますが、是非、異論、反論、新説、珍説をお待ちいたします。
歩くインストラクターになりました
日本で初めてのパワーウォーキングインストラクターになりました。写真が認定証です。岳温泉では現在、日本一の散歩道を持つ観光地づくりを進めています。偶然にもハートヴィッヒ・ガウダ―さん(ドイツ人で競歩オリンピック金メダリスト)と知り合うチャンスがあり、2月に来岳し簡単な講習会を行い、今回2度目の来岳にて、日本で初めてのパワーウォーキング資格認定講習会に漕ぎ付けました。6月27日〜29日の3日間、主催をハートヴィッヒ・ガウダ―・パワーウォーキングクラブ総本部、共催・岳温泉観光協会で全国から54名の参加にて行われました。講義内容は福島大学の黒須教授らによってパワーウォーキングを体育学的に基本理論を学び、さらにガウダ―氏自らの体験から構築した『歩くこと』を基本に理論構築された理論を交えて体験習得する3日間でした。パワーウォーキングの概念については3月のこの『あぐだもぐだ』にて掲載してありますが、参加者は北は八戸、南は和歌山からと、場所も職業も人生経験も多才な顔ぶれで素晴らしい盛り上がりでした。参加の皆さんから学んだことを自分の中にしまって置くのはもったいないので、頂いたコメントを無断でランダムにお知らせします
≪元短距離陸上選手≫走ることはつま先だけごまかせるが、正しい歩き方はごまかしが利かない。
≪介護関係従事者≫最近の歩行器利用だけに頼る高齢者歩行はつま先だけの歩行になり高齢者の健康増進にはならない…
≪エアロビクス指導者≫「筋肉は何もしないと縮む性質がありまぁーす、だから毎日ストレッチしましょう…」と最終ウォーキング7kmテストのクーリングダウン体操の模範を示しながら分かり易く話してくれました
≪福島の主婦の方≫なぜパワーウォーキングでは肘を90度の角度にするのかをガウダ―さんにパーティーで聞いてみたら「早く血液を心臓に戻すためです」と、思わず納得したとか
≪その他≫日本の草履は歩くことが利に叶っている。なぜなら草履の反り返りは踵から着いてつま先で蹴らざるを得ないから…エトセトラ…
お陰で、3日間の資格認定講習会で岳温泉関係者が10人インストラクターとしての認証証を授与することができました。3日間で取得した単位は本来修得すべき修学時間の6分の1だそうですが、今後2年間アシスタントインストラクタ―として、パワーウォーキングを正しく伝える立場になりました。是非、岳温泉に来てパワーウォーキングを体得してください。自然環境に恵まれた33コースは素晴らしいですよ!
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