やっちゃんのあぐだもぐだ
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100周年と、これからの100年
今年1年間は岳温泉復興100周年の年として色んな行事を無事完了することができました。1月から色々な行事に復興100周年の冠を被せて、昨年までとは少し違った味を出せたかなと勝手に思っています。スキー大会から始まり、女将と遊ぶ雛祭り『安達太良万遊博』、ウォーキング大会関連では4月から100日で100kmを歩こうキャンペーン、6月のオリエンテーリング大会も全部冠付きでした。さらに、ウォーキング関連では6月と9月にノルディックウォーキングの講習会、そして、9月9,10日の第2回岳温泉あだたらツーデイウォークも2回目とあって万事無難に開催できました。また7月にはガウダーさんの3度目の講習会が行なわれ、『歩く岳で健康』のキャッチフレーズが頭にこびり付いたままです。ニコニコ共和国は25回目のサマーフェスティバルに思い切って日本国統合、新たな時代の観光地づくりのための重石を取り除くことができました。10月29日のハロウィーンは残念ながら不在で見学することができなかったけど、旅館や商店の女将さん方が魔女の格好をして大変な盛り上がったとか、後で写真を拝見しビックリしました。11月23日で第52回の菊人形も終了、今年は17万3500人だったそうでなかなか厳しい要りこみ人数であり、時代の変化はヒタヒタと伝統のイベントにも押し寄せていると思わざるを得ません。11月28日には100周年の集大成としての祝賀会が行なわれ多くの方にお集まりいただき、引き湯小屋のご披露や、4百数十ページの記念誌もご披露することができ100年の区切りができたことに大変満足しております。これから100年先を見越した温泉場作りは新しい時代の新しい感覚でやらなければならないと思います。そんな意味では、10月にガウダーさんのお誘でドイツに行けたことは最高の収穫になりました。特に、最後に立ち寄ったウィースバーデンのエコ農園ホテルの取組みは、これからの岳温泉の進むべき方向に大きな示唆を与えてくれたように思います。野菜、乳製品、ソーセージ類、パン、ワイン、コーラやジュース、羊毛商品までが全部7年以上の有機基準を満たした商品でした。朝早くから、宿泊以外の買い物客が有機商品マーケットに押し寄せる様は、岳温泉の生ゴミリサイクルから始まった取組みの方向性が間違ってないことの証です。写真はエコ農園。もう一度ゆっくり泊まってみたいホテルでした。
チューリンゲンの森でウォーキング
 10月末に、パワーウォーキングの伝道者、ハートビッヒ・ガウダーさんにお誘いを受け、チューリンゲンの森のウォーキング大会に参加。日本からは全部で10人、岳温泉からは私を含め3人がドイツの森の散策をすることが出来ました。旧東ドイツ側のバード・ザルツンゲンという保養温泉地に3日間滞在し、プンパルツの小路とネーミングされたウォーキングコースをドイツの方々に混じって14kmほど歩くことができ、大変いい経験になりました。町を出て、山道に入り、牧草地を通り、木組み家屋の街並みがきれいな集落を通り、マルチン・ルターに縁のある村がゴールです。途中の村々は景観を大事にしたドイツ特有の雰囲気が味わえ、所々にプンパルツのキャラクター漫画がデザインされた標識があり、歩くことを大事にしたお国柄をうかがい知ることができます。牧草地の真ん中を走るまっすぐの道には林檎やプルーンの木が植えてあり、お腹が空き皆で実をもぎ取って食べました。小振りの林檎は、ことのほか美味しく小学生頃に食べたような懐かしい味がしました。ゴールになった村では、道端には沢山の出店が出て、色んなものを売っています。ソーセージの店、シナップス(強いお酒)やホットワインの店。村の領主と取締官や足に大きな鉄の玉をつけた囚人のパレード。ロビンフットが林檎をいるイベント。チーズとピクルスの店やドイツ風駄菓子屋など、日本の村祭とはどこか雰囲気の違った村祭です。教会では聖歌隊がジャズ演奏者と共演をするなど、楽しい雰囲気とワインに酔いしれました。
 岳温泉がウォーキングを軸とした滞在型の健康保養温泉を目指して本格的に動き出してようやく2年目です。まさか、ガウダーさんのお誘いを受け秋のシーズンまっただ中にドイツ旅行に行けるとは夢にも思っていませんでした。それでも、今回のウォーキングを始めとするスポーツツーリズムの視察は参考になることが多く、しばらくは『あぐだもぐだ』にドイツの話が登場すると思います。…ってわけで少し間が開きすみませんでした(訪独通信1)
2006年11月13日
銀河鉄道で4次元世界へ行ってきました
先日、宮澤賢治に誘われて4次元宇宙を旅してきました。実は、花巻市で『杜の賑わい』(JTBが地元自治体と共同で行なうイベント)を見るチャンスに恵まれ、宮澤賢治をテーマにした岩手県の郷土の祭が次々と登場する舞台演出に魅せられ、余韻を残しながら無事帰還いたしました。最近の舞台演出はレーザービームを巧みに使います。蒸気機関車の効果音が遠くから近づいてくるように感じた瞬間に、銀河鉄道のレーザー光線機関車が会場に浮かび上がり、また遠ざかって幕が開き、ステージ真ん中に山高帽にマントの宮澤賢治が現れ舞台は始まりました。ジョバンニに扮する妖精風バレリーナ3人が知的な旅人宮澤賢治の知性をさらに引き立たせ、いつの間にかスモーク効果がレーザービームで4次元空間を作り出し、観客を銀河の旅への誘います。セロ弾きのゴーシュが出て、聖歌隊がハレルヤを歌います。いつの間にか、風の又三郎にシーンになりユカタとランニング姿の子供達が「どっどど、どどうど、どどうど、どどう…」などの宮澤賢二特有の擬音コーラスへ展開。さらに、鬼剣舞、田植え踊り、獅子踊り、最後の場面はミスさんさ踊りの色っぽさに魅了された、あっという間の1時間半でした。宮澤賢治の想念が舞台演出に貫かれた素晴らしい感動ものでした。私の役目柄、花巻の市長、副市長、観光課長さんにもお会いでき色々とお話をさせていただけたおまけもあります。宮澤賢治記念館は整備が良くなってきたけど、今度は高村光太郎の山荘を何とかしなければならないともおっしゃられ、私が二本松の出身で、今度、安達町も二本松市に合併になったことを話したら、高村智恵子の故郷との何らかの交流もしたいとの思いもあるらしく話が弾みました。また花巻市にも東和町があり、合併でまたいっしょになったことも分かりました。先月は宮澤賢治像の除幕式があり、こちらは我が二本松名誉市民の彫刻家橋本堅太郎先生の作、少なからぬ因縁を感じて帰宅した次第です。岩代町にも三匹獅子舞があり、何らかの交流が生まれれば素晴らしいことですね。写真は杜の賑わいのフィナーレです
祭とまつりごとの一考
台風一過、ようやく秋晴れです。伝統の提灯祭も、宵祭の初日だけが天候に恵まれ、久しぶりに高校時代の同級生達と、太鼓台の出発から真夜中1時の二本松駅前広場に七台の提灯山車が到着するまで、ほろ酔い気分で祭行列といっしょに二本松提灯祭を満喫することが出来ました。ちなみに、この提灯祭は350年の伝統があるといわれています。二本松藩の石高は10万700石、江戸から仙台までの間では最も大きな藩でした。領地は現在の二本松市と安達郡と郡山市の4分の3ほどの面積で猪苗代湖の湖南村までですから、実際に大きな藩だったようです。言葉訛りは「…んだばい」が語尾に付く範囲だから今でもテリトリーは想像つきます。藩主光重公が二本松に入府されてからは二本松の地形的特性から治山治水には大変苦労されたようで、用水事業など多くの土木事業の歴史が刻まれています。二本松の町割整備は、丹羽備中貴明が座上家老の時であり、現在の提灯祭の形になったのはこの頃ともいわれています。伝統の提灯祭も一朝一夕に現在のスタイルになったのではないようです。ちなみに、10月4日の宵祭も昔は夜が明けるまで太鼓台を引き回していました。私達、旧市街の周辺部の住民は、祭の伝統を受け継ぐ若連の皆さんの気概と情熱に拍手を送りたい気持ちでいっぱいです。350年前に二本松神社例大祭としての提灯祭は年に一度の感謝の意味で町民のお祭として藩主丹羽様からのご認可で始まったものでしょう。祭は政(まつりごと)であり、その意志が伝統的に受け継がれて来ているという事実は、二本松市の町割り、字単位のコミュニティースケールが正しいことを示しているような気がします。国家政策が各地方の地域政策に有効に働いていれば、今のように地方小都市の中心街空洞化などの問題もなかったように思われます。二本松は年に一度のお祭だけは必ず燃え上がります。祭があっても「まつりごと」が戦後空洞化したためか、普段の町はゴーストタウンです。このあたりで、「政…まつりごと」が祭で燃え上がる情熱をしっかりサポートするような行政手法に大転換してもらいたいものです。久々に同級生同士で提灯祭を楽しんでの感想です。ちなみに我らは団塊の世代のトップランナー、来年は還暦でリセット『0』にしようと考えている世代です。この40年間燻っていた社会変革ののろしを再度上げる輩も出現するかもしれません。撮影は10月5日午前1時頃、撮影者は私
岳山ミステリー『雲堂和尚の山止め祈願』
岳温泉が現在の地に復興し今年が100周年であることは、この『あぐだもぐだ』なる自己満足的文章で何度も書きましたが、どうして一旦全滅しても地域ぐるみで復活を遂げるのか私にとっては分からないことが数多くあります。そもそも温泉場ぐるみで移転を繰り返すようになった最初の原因は、今から182年前の文政7年(1824)8月15日の山崩れで死傷者を2百数十名も出した大惨事があったからです。
 ミステリーはこの大惨事の154年前の寛文10年(1670)に、予見したような歴史的記述があることです。それは雲堂和尚によってなされた山止めの祈願です。この祈願によって150年間の歌舞音曲を許されたとありますが、祈願の効力が消えて4年後の文政七年岳山変事が起きたことです。不思議ですよね。写真は2006年9月19日に撮影した梵字石です。寛文十庚戌年の字が岩肌のコケで浮き出ています。もともと、安達太良山会津越えの重要な登山ルートのすぐ脇に位置しますが、10年前の沼の平のガス事故のトバッチリでこのルートが閉鎖されたままで、昨日歩いても潅木が育ちなかなか入れない状態になっており、一日も早いルート再開が待たれます。余談ですが、閉鎖する時はパニック状態で閉鎖し、再開する時は冷静に何度も調査する手間とお金を掛けなければならないという理由で10年も放置しっぱなしは腑に落ちないですよね。雲堂和尚のように冷静に山の様子を見て、「150年間、山中でのドンチャン騒ぎを許す!」と言ってのければいいんですよネ。ちなみに雲堂和尚の山止めの祈願石はもう一つは旧岩代町にあるそうです。さらにもう一つが安達太良山中にあるといわれていますが、どこにあるか不明です。ひょっとすると文政七年の山崩れで埋没しているのかもしれません。今の岳温泉が8kmも引き湯をして繁盛する温泉場になっていることは、雲堂和尚の法力のお陰かもしれません。繁盛し、おごりが生ずると必ず天罰が下るようです。ニコニコ共和国が1982年に開国した7年後の1989年8月6日に再び同じ場所で山崩れが発生し、温泉が丸一日止まりました。このときは岳温泉総出で復旧にあたりました。文政7年から165年後のことです。150年+15年ですがこちらはこじつけですかねェー。
観光宣伝のダ・ビンチ・コード
ニコニコ共和国に幕が下ろされ、いよいよ岳温泉ぐるみで連泊滞在型の観光地づくりを目指して本格的に歩を進めることになりました。8月31日の日本国統合記念・大統領主催最後の晩餐会には、久しぶりにマスコミ各社の取材攻勢を受け、立食式パーティーでも延々3時間の大はしゃぎとなり、まるで25年前に戻った感じでした。独立当時は、私も若く怖いもの知らず、小さな温泉場が独立宣言しても役者ぞろいでした。テレビ局の脚本どおりにシローキムラ大統領や閣僚を楽しくうまく演技に乗せることが出来ました。あれから25年、独立宣言当初から閣僚だった人たちや、その頃は嫁に来たばかりで出番のなかった女将さんたちは、今回の晩餐会が最後の出番と大張り切りでした。普段は女将さんのトレードマーク的和服姿から一転、マリー・アントワネット張りの貸衣装で登場して会場の華やかさを一層引き立ててくれました。まさに最後の晩餐会でしたが、ダ・ビンチ・コードは一体何だったのでしょう。ひょっとしたら、岳温泉復興100周年とニコニコ共和国25年の割り切れる数値マジックで単純に幕引きをしたことだけなのかもしれません。思っても見なかった取材攻勢で25年前の『真夏の夜の夢』が再現されました。ニコニコ共和国の歴史年表には西暦2525年には全世界がニコニコ共和国になるとあり、この啓示がダ・ビンチ・コードかもしれません。ドイツ式ウォーキングを取り入れた『歩く岳で健康』も何かを示唆しています。人間の骨格筋の数660個、足に関する筋肉430個、手に関する筋肉170個、残りは顔の筋肉60個です。第2の心臓足をパワーウォーキングで鍛え、腕と足をノルディックウォーキングで鍛え、残りの顔はニコニコと笑って鍛えます。今はさわやかな安達太良の9月の空に、斬新なデザインのバナーが新しい時代を告げるべくひるがえっています。DAKE ONSENが100年の感謝を込めて、さらに100年先をめざして、十字架のようなDANKE ONSEN になりました。9月11日からの『復興100年の大実験』期間中に是非、連泊して安達太良高原の秋を楽しんで下さい。それぞれの皆さまのダ・ビンチ・コードを考えてみるのも楽しいですよ。今回は少し遊びすぎの文章ですみません。
ニコニコ共和国の観光戦略
 ニコニコ共和国が誕生して早や25年、4分の1世紀が経過しました。1982年4月28日が独立記念日です。このセンセーショナルな観光地戦略は予想以上の結果をもたらし、それまでは考えても見なかったマスコミの取材攻勢に岳温泉全体が巻き込まれ、全国にミニ独立国誕生ブーム火付け役になりました。UPI電として世界中にニコニコ共和国独立宣言のニュースが飛び交い、岳温泉の夏休みも空前の賑わいを見せました。あれから25年、今年もサマーフェスティバル開国式から一連のイベントが行われ連日岳温泉のスタッフがお世話に奔走いたしました。
 さて、このニコニコ共和国も25年を以って日本国統合となります。8月31日の大統領主催・最後の晩餐会にて、ひとまずバカ騒ぎイベントは幕を下すことになります。25年前に右肩上がりの経済環境の中で考えられた観光地戦略を根本から見直すきっかけにし、新しい時代にあった形に改革していくことが目的です。共和国通貨コスモはこれからも日本円と同時に使われます。余談ですが、コスモは大不況対策の地域通貨としの機能は大きな役割がありました。旅行商品やスキー大会の賞品にも使われ、財貨を岳温泉にだけ25年ももたらした通貨ですから絶対ないがしろにはできません。また、ニコニコ共和国ビール、大統領推薦ニコニコラジウム卵、ニコニコラーメンなども大事な特産品でありより販売増になるように智恵を出し合いたいものです。
 9月からはニコニコ共和国の成功体験を捨て去り、新しい岳温泉の観光戦略を具体的行動に落とし込んでいきます。大きな柱は健康保養温泉地づくりという名の連泊滞在型観光地づくりです。日本の温泉場は1泊2食付の形態がほとんどで、すべてが旅館の中だけで事足りてしまいます。街に人が出ても何もなく、滞在客には不向きな温泉場がほとんどです。9月11日からの20日間を『復興100年の大実験』と称して、連泊滞在型の観光地づくりのテストマーケテイングを致します。一つの旅館に泊まっても夕食は別のレストランや旅館でも食べられるようにも致します。滞在中の過ごし方としてはトレッキング、ウォーキング、オプショナルバスツアー、宿パビリオンでの催し物などこの20日間を大実験期間として組み立てなおします。告知期間が少ないのが難点ですが、是非大実験期間にお泊りいただき岳温泉の滞在を大いに楽しんでください。日本の温泉場ではなし得なかった泊食分離の連泊滞在型初挑戦です。何とか成功させてみたいと思います。
観光開発は汗と情熱
 最近はどんな市町村でも観光立市を訴えています。小泉首相の一言でようやくインバウンドに力を入れ始め、2010年までに訪日外国人を1000万人に増やすプロジェクトも進行中であり、あとは観光客を受け入れるべく国際水準の観光地づくりが大事になってきたと思います。
 外国人観光客が増えても、日本の観光政策の遅れは大きな問題になるように感じます。日本国中伝統的街並みが破壊され、海岸線はテトラポットだらけになり、山岳河川は砂防ダム景観になってしまいました。首相の大号令が運輸機関や旅行会社を動かし、確かにインバウンドを増やしつつあることは確かです。しかしながら、観光先進地のスイス、スペイン、フランス、アメリカはもちろん、東南アジア諸国と比べて、受け地としての魅力に競争力はあるのでしょうか。今まで破壊しつくした街並み、海岸線、川筋を日本的で魅力的な状態まで戻し、繰り返し日本を訪れてもらえるような観光地に日本全体を再び作りかえる必要があると思います。
 さて、今年は岳温泉復興100周年の年。100年間の観光開発の歴史をきちんと顕彰し、これからの100年を間違いのない方向に導かなければと思っています。私は祖父母や父から、引き湯の大変さをよく聞かされました。大正時代、冬期間はお客様がほとんど無く、炭焼きをして生計を立てていたので、スキー場の開発に踏み切った話などを聞いて育ちました。2番目のリフトが完成した時、父の年代の人たちと我々子供たちもスキー場の整備を手伝い、伐採した唐松の枝を運んだ記憶があります。昭和57年のニコニコ共和国独立の年は、国境看板の丸太をみんなで運んで皮を剥いだこともあります。バブル期に作られたスキーリゾートの開発手法とはまるで正反対の開発手法です。効率は極めて悪くとも、コースに地域のみんなの汗が浸み込んでいます。生きた観光地づくりの姿はこういうことなのでしょう。
 岳温泉は一昨年から日本一多様な散歩道をもつ観光地づくりに取り組んでいます。手作りの丸太標識やら、丸太の階段なども少しずつ整備されています。ウォーキング自体が地味なスポーツで、ウォーキングコースが沢山あるため、整備状況がなかなか見えてきませんが、間違いなく一歩ずつ進んでいますので、是非ウォーキングにお出で下さい。写真は8月3日に万葉浪漫コースの急坂部分135段の階段を整備し終わった直後の写真です。間伐材を払い下げてもらい、一人で200本もの木を切り出し最初のきっかけを作っていただいた高畠さんの情熱には特に感謝いたします。梅雨の上がらない中、何度も作業に出てくれた観光協会のメンバーの慣れない力仕事に対しても深く感謝したいと思います。この階段はみんなの汗が染み付いた階段です。ウォーカーの皆さんには必ず喜んでもらえるはずです。若い観光協会メンバーもカケヤの使い方を習得でき、次世代への観光開発の原点が伝わったかと思います。成果のなかなか見えないウォーキングによる観光開発ですが、ハートビッヒ・ガウダーさんの格言どおり『ゆっくり歩くことをおそれるな。立ち止まってしまうことをおそれよ』をいつも胸に、観光開発に努力したいと思います。
強い観光地づくりの一考察
中田英寿選手のサッカー現役引退表明には驚きました。昨日の日経新聞コラムにも、「蹴る」を意味する「カルチョ」はサッカーの起源の一つとされ、ルネサンス時代からイタリアの地方都市で行われてきたこと、町や村で繰り広げる格闘技に近い対抗競技が、都市を基盤とした現在のサッカーチームの原型になったことも取り上げられています。中田選手が所属したことのある古都ボローニャは古代蹴球の舞台であったことや、基幹産業衰退、人口減、高齢化は日本の地方都市の抱える課題と同じでも、自治の伝統を引き継いだ熟練技術を生かして街を再生させる試みに『作家の井上ひさし』が注目しているという行があり、ハタと目に留まりました。なぜかというと、井上ひさしの『吉里吉里人』のパクリ的なニコニコ共和国独立宣言で日本国中を煙に巻いた25年前の記憶がよみがえったからです。井上ひさし氏が序文を書いている、星野まりこ著『ボローニャの大実験』を早速、岩瀬書店で買い求め、序文だけを読み、『あぐだもぐだ』の文章に引用しました。欧州サッカーチームのクラブチームをモデルにした地域密着型Jリーグ発足から13年。日本チームの完敗と欧州各国の群を抜く強さは、基盤となる地域力の支えと不可分に違いないと言い切るコラムニストに感心しています。
 同じ町づくりでも、日本と欧州ではまったく根っこが違うと思います。日本のほとんどの町は道路沿いの集落が拡大したもの。それに比べて、欧州の都市は外敵からの守る城壁が町の周辺を囲む形。オフェンス、デイフェンスの役割意識もきっと伝統的に備わっており、スキルも高いレベルで臨機応変に対応するのでしょう。日本の都市は外敵に対してまったく無防備、簡単に侵入者に攻撃され地域アイデンティティーを壊されてしまいます。日本国中のどの都市からも個性が見えて来ず、我が愛する温泉観光地も同様です。25年前のニコニコ共和国独立宣言は日本のお家芸的な奇策でした。後半にチームワークに穴が開きすぐに3点も4点も取られてしまうような観光地戦略かも知れません。吉里吉里国もすぐに日本政府に攻められ独立国を解除されました。井上ひさしが注目し、中田英寿が29歳で選手引退、次の30歳台から新たに目指すステージは、日経のコラムニストの断言と同じように何らかの共通点があるように思えてなりません。わが岳温泉の再生のカギを『ボローニャの哲学』から学ばせていただきます。井上ひさし氏の序文;「市民にやる気があり…自治体に先見の明と度胸があれば、大きな、そして貴重な価値を生み出すことを、ボロ?ニャは教えてくれている。…」
蛇足ですが、トンバもボローニャ生まれ。サッカーもスキーも足(スネ)の長い人は絶対有利です。プラス、何らかの爆発力。中田英寿はスバラシイ、イタリア語も英語もペラペラ。次はアメリカでMBA取得とか。自治意識の強い町づくりのようなクラブチームを作るのかもしれませんね。私見ですが……
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