やっちゃんのあぐだもぐだ
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ガウダー理論パワーウォーキングの真髄
  パワーウォーキングの提唱者であるガウダー氏の岳温泉訪問が今回で5回目になりました。最初は5年前の2005年3月1日。その年の6月に岳温泉で日本初のパワーウォーキング指導者育成講習会が開催され53人のインストラクターが誕生いたしました。その後も毎年来日され、その度に岳温泉にて講習会を行い多くの方に参加をいただいております。5回に亘ってガウダー氏のパワーウォーキング理論を学んだお陰か、ガウダー氏の提唱する真髄がようやく理解できるようになりました。
  ガウダー氏は50km競歩の金メダリスト(1980年モスクワ)であり、自らの世界記録3時間37分47秒は20年間も破られませんでした。中学生まではスキー複合の選手でしたが、競歩の才能が目に留まり競歩競技に転向させられたようです。当時は東ドイツであり国家プロジェクトとして彼のために特設の練習道が作られた事もありました。引退後は建築家になり、古い家屋の解体でウィルス性の心臓病に罹り、当初は人工心臓、そして心臓移植を余儀なくされ現在に至っているようです。心臓移植後は通常は6年くらいの余命になるようですが既に13年経過、現在はイオナ大学にて教鞭を取りながら自らの体験を基にした社会教育者として世界中で活躍されている方です。
  ガウダー理論は心拍数を基にしたトレーニング理論であり、第2の心臓である足の機能を高めて新陳代謝を良くし健康増進につなげる理論です。心臓から出た血液は体の末端の毛細血管で各筋肉組織に酸素を供給し新陳代謝が行われ、静脈血として心臓に戻されます。足の動きはこの老廃物をたくさん含んだ血液をキチンと心臓に戻す大事な役割があります。カカトで着いて足底のローリングでつま先を蹴ることによりフクラハギのピストン運動につながる訳です。正しい足の動きがいかに大事かです。
  ガウダー氏が正しい足の動きをするのは当たり前ですが、他人の心臓を第2の心臓である『足』を使って生かし続けているところに真髄があります。岳温泉でのセミナーが5回目になり参加者の顔ぶれが変わってきたことに気づきました。それはガウダー理論の真髄に迫るために参加する方が多くなってきたことです。2年前から片肺の方は数日前のウォーキングで60kmと30kmを続けて踏破したとか。生まれながらにして臓器不全でも歩くことにより姿勢が良くなってきた方は、今ではスキーで冬の山岳耐久レースにも出場できるようになったとか。若くして脳梗塞に罹りながらも正しい歩き方でほとんど正常な動きになった方。まったく健康体で自らがウォーキングの指導者として活躍中の方などが今回の参加者でした。これらの方々はさらにガウダー理論の真髄に迫りたく今回の参加につながっているようです。
  写真は今回セミナーのヒトコマです。岳温泉観光協会にはウォーキングインストラクターが常駐しており、ガウダー氏直伝のパワーウォーキングをご指導できます。
異常気象と安達太良山紅葉前線
  安達太良山の紅葉を見ると、今年の異常気象ぶりが何となく分ります。ゴンドラ山頂駅を降りてすぐの薬師岳から絶景は10月9日頃から例年通りの発色でした。でもこの頃に麓から見る山はほとんど緑色。標高差400mを一気に稼ぐあだたらエキスプレスゴンドラのお陰で夏から秋に一気に駆け上がれ、錦秋の安達太良を間近に観賞できるのでたくさんの人でにぎわいます。
  紅葉が見事な上に、簡単に絶景が見られるものだから登山道は様々なリゾートファッションで溢れるます。こちらもカラフル。最近目立つ山ガールファッションはカラフルなタイツにスカートとヤッケ、帽子もリュックも登山靴もさらにカラフルです。伝統的チェック柄の登山シャツを着たスタイルはまだまだ多く、主流を占めていますが、中にはまさにヤマンバ(ガングロヤマンバの)そのまんまの女性も見受けられます。ハイヒールのロングブーツにミニタイトスカート、そして通常のストッキング。ゴンドラ山頂駅からしばらくは木道が続くので勘違いし、つい標高1700mの山頂まで気軽に登ってしいます。木道の長さは800m程度、あとは石ころだらけの登山道。案の定、下り道で歩けなくなって抱えられて降りて来る旅行客を何度もお目にかかりましたので要注意です。
  ゴンドラ乗場付近が過ごし易い気温でも山頂駅からは急激に気温が低下します。さらに標高1700m位の稜線に近づいたとたんに偏西風が吹きすさぶのが安達太良山の特徴であり要注意です。ちなみに標高を100m上がるごとに気温は0.6℃ずつ低下。ゴンドラ乗場が10℃の時は薬師岳山頂駅は7.6℃、標高1700mの安達太良山頂は5.5℃になります。さらに常に西風が吹く稜線では体感温度は簡単に0℃くらいになってしまうので細心の注意必要なのは言うまでもありません。
  さて気象と紅葉の話に戻ります。今年の秋は、標高1350m以上とそれ以下では極端に気象条件が違っているように感じています。今年の初冠雪日は10月27日。20年くらい前の初冠雪日は10月初旬から中旬であり、紅葉垂直前線も少しずつ麓に降りてきたように記憶にしています。連日猛暑日が続いた夏の後、一気に冬になったような感じが今年の秋です。空気の温度差が高層と低層では極端に違っているのではないでしょうか。だから、局地的な豪雨や、竜巻も発生するのかもしれません。
  異常気象のせいか岳温泉周辺はやっと今頃になって色づいてきました。菊人形の会場付近はこれからが紅葉の始まりです。菊の咲き具合もようやくよくなってきたようです。安達太良山は紅葉の絶景地が随所に点在します。是非、錦秋の安達太良と二本松を楽しみにお出かけください。写真は今年の夏、気になった山ガールのワンショットです。ご参考までに…
国境争いと50kmトレランの舞台
  国境争いと言っても、尖閣諸島のことではなく会津藩と二本松藩の国境のことです。わが安達太良山の稜線を挟んで会津藩と二本松藩は昔から硫黄採掘権と温泉の利権を巡って争いがありました。それが安達太良山の稜線を巡っての境界争いです。
  1664年に幕府判定のための第一回折衝が行われ、二本松藩と会津藩から一人ずつの藩使が幕府の評定所に出頭、この第一回目は二本松藩が敗訴し、使者は責任をとり割腹自殺したとのことです。この時は二本松藩の使者が評定所の詰め所にて、先に居た会津藩使者からいきなり二本松の使者への質問「会津領岳山(安達太良山のこと)の境界の件について、上府された二本松藩の使者殿か」と問われ、使者は思わず「いかにも」と応じてしまい、幕吏が出席すると会津藩士は「会津領岳山として、二本松藩使者殿には、既に承認されている。」と申立てたので、特別の詮議も無く会津藩の勝訴となったとの挿話です。
  第2回の争いは、約百年後の1754年に幕吏の現地検分が行われ、二本松藩の家老を筆頭にして数人が立会い二本松藩勝訴となったのです。この時の有名な挿話は、藩お抱えの儒学者・岩井田咋斐が三尺弥源次を使って二本松藩の主張する境界線に、木炭を埋めておきそれを証拠として安達太良山頂の二本松領を主張し百年前の判定を覆した話です。三尺弥源次がどんな人物であったかは、塩沢二又沢出身の小柄で身軽な人物であったと伝わっており、二本松と会津を安達太良山を越え一日で往復できたそうです。また菅笠を胸に当て一日走っても地面に落ちる事がなく、また1反(約9m)のふんどしを棚引かせても端が決して地面に触れることもなく走れる忍者みたいな人物であったと想像されます。
  さて、今回の写真。9月26日に行われた第1回あだたらマウンテントレイル50kmの覇者がゴールを切るときの写真です。前置きの二本松藩と会津藩の争いとは時代も背景も違いますが、この優勝者望月選手も三尺弥源次と同様の能力を持った選手に違いありません。トレランの舞台は国境争いの場と同じ、安達太良連峰の全ピークと奥岳、石筵、沼尻、横向、塩沢の各登山口を5回も上り下りし山道44km累積標高差4058mをわずか6時間44分45秒で無傷でゴールです。奥岳から安達太良山頂まではわずか28分だそうです。国境の炭が埋まっているかもしれない尾根を飛ぶように走れ、岩を飛び、潅木と笹をかき分け走りぬく様は超人的身体能力の持ち主でしょう。ちなみに凡人の私も出場しましたが途中棄権。でも素晴らしいトレイルレースでした。来年は皆様も出場してみませんか?
安達太良賛歌と50kmトレールラン
  日帰りで気軽に登れる全国100名山の第1位(5月のbe土曜朝日新聞)になったせいでしょうか、今年は色んな雑誌に『安達太良山』が取り上げられています。登山とはジャンル違いの月刊スキージャーナル9月号にも田部井淳子さん親子(嫁姑)と安達太良山が20ページにわたりグラビア特集されています。この中には三浦豪太さんも登山における運動効果などを詳しく取り上げ、夏山を使った冬のスキーのトレーニングについて触れています。是非、ご一読をお勧めします。
  さて、わが愛する安達太良山には7つの登山口があり色んなルートが取れます。今はメインルートが表安達太良登山口こと奥岳登山口になっています。ゴンドラで一気に標高1350mの薬師岳まで登れるこのコース、実は昭和39年のスキー場の夏山リフトが開業してからの安達太良山系では新しいルートと言えます。ゴンドラのお陰で春夏秋冬の安達太良連峰の変化が身近に感じられ、蔵王連峰、阿武隈山地など大パノラマも楽しめる人気コースです。
  メインルートが便利になりすぎると、古くからある登山道の整備が追いつかなくなるのは世の常ですが、塩沢口からの登山もお勧めです。塩沢口→馬返し→僧悟台→笹平→弥陀ヶ原→鉄山→馬の背→矢筈ヶ森→峰の辻→くろがね小屋→塩沢別れ→湯川渓谷→八幡滝→屏風岩→馬返し→塩沢口とルートで標高差役1050m、距離約18km、所要時間で約7〜8時間。通常は逆ルートを取るようですが、最初の上り坂はキツくても森の中を歩き、僧悟台に近づくにつれ植生も豊かになり、安達太良山、篭山、鉄山、箕輪山の景色がだんだん近くなる景色には他のコースにはない達成感を感じます。笹平付近がカール状ににえぐれ、この谷に降る雨が一気に東鴉川の急流になるのかと思うと自然の驚異さえも覚えます。笹平分岐に到着し鉄山避難小屋に来るとホッとするからこの辺を弥陀ヶ原と言うのでしょうか。ここからは沼の平噴火口の不気味な景色が目に入ります。本当は鉄山から今は通行禁止になっている馬の背→くろがね小屋のルートが最短距離です。梵字石のような歴史的遺産(山止めの祈願石『寛文10年(1670年)』)があり、湯川の源流を右にみて湯川渓谷を下るのがお勧めですが……
  さて、その他、石筵、県民の森、沼尻、横向、野地の登山口とありそれぞれのコースに特徴があるのが安達太良の登山コースです。実はこの9月26日には登山コースの80%を使い第1回安達太良山50kmマウンテントレールレースが開かれます。午前6時に奥岳のスキー場をスタート、制限時間15時間で標高差1000m位を5回上り下りを繰り返すレンジャー部隊並みのレースです。地元の山でこんなレースをやるのに黙っているわけに行かぬと私も老骨(?)に鞭打って出場することにしました。参加することに意義ありの参加ですが、途中リタイアを視野に無理せず無事生還を期します。写真は笹平のカール状地形。別天地の景色を見に、日帰り登山も良し、50kmトレイルレース参加も良し。気軽に我が裏山まで出かけてみませんか?
『はやぶさ』の快挙は天地明察
  『人工衛星 官民で輸出』の日経新聞トップ見出しに思わず拍手を送ってしまいました。7年ぶりに地球帰還を果たした『はやぶさ』の快挙のお陰でしょう。ついこの間までは政府事業仕分けの対象になり『はやぶさ』の後継機開発が中止となっていたところを、無事帰還で一気にプロジェクトが復活する勢い、さらに大隅半島内之浦と種子島の両宇宙基地からも打ち上げ時期を限定せずに行えるようになったとの報道には「してやったり」の感があります。
たった23センチのペンシルロケットの延長線上にあるM−X型(ミュー5型)で打ち上げられ小惑星『イトカワ』に着陸し離陸、往復60億キロを旅した世界初の快挙には思わず身震いし、JAXAの「はやぶさ」プロジェクトマネージャーの川口淳一郎氏らに思わず拍手喝采です。
このところ、私の脳みそは理系に偏っています。理由は本屋大賞第一位の『天地明察』にハマッテしまい主人公の渋川春海よろしく、算学絵馬を見に渋谷の金王八幡宮に参拝したり、三鷹にある国立天文台へも出かけ天地明察展をのぞいたりしているからです。また、改暦の進言をした会津藩主保科正之公の眠る土津神社(猪苗代)へ詣で、さらに足を伸ばして会津日進館の天文台と現存する本物の日進館天文台にも登ってみたりしています。
  私の年代は糸川博士のロケットと共に育った世代だから、小惑星まで行って戻ってきた『はやぶさ』の快挙には涙が出る思いです。往復60億キロを無事帰還できたのは、システムにブラックボックスがないプロジェクトだったからに違いありません。色んなトラブルを地上から片道17分もかけて操作し解決するという神業はまさに『天地明察』と言えます。『はやぶさ』は純日本プロジェクトの成功であり、和算学から大和暦による改暦事業に至った『天地明察』の内容となんとなくダブる気がし勝手に結び付けています。
写真は金王八幡宮の算学絵馬です。是非、参拝をお勧めします。歴史小説『天地明察』22ページの設問「3:4:5の直角三角形に内接する二つの同円の直径」の解答を未だにひねり出せない私ですが、二本松藩磯村吉徳の設計した二合田用水のほとりを歩きながら近々回答を導き出したいと思っています。

十文字岳温泉のこと
いつも今の季節になると、岳の湯の素晴らしさを再認識します。梅雨時のジメジメとした暑さ、肌にまとわり付くべとべと感などが岳の湯に入ると、スーッと消えてしまうマジックのような効果とでも言うのでしょうか。
岳の湯は太古の昔から同じ場所、安達太良山中の標高1500mの地点の15箇所の源泉から湧出しています。そこは、186年前の山崩れで温泉場ごと埋没してしまった地点です。この大事故の死傷者は2百数十名にも達しました。今の世ならば世界的ニュースです。災害救助には藩内から一千名を超える救助隊が出場したとの記録があります。かくして、元湯温泉こと陽日温泉は町ぐるみで引っ越すことになるのでした。移転先は元湯から6kmほど下った十文字岳温泉。マチぐるみ移転の大決断は一体誰が下したのでしょうか。
なぜにほとんど壊滅した温泉場を復興させたのでしょう。この事は私がいつも不思議に思っていることです。
時は文化文政時代、二本松藩座上家老の丹羽備中の指揮の下に翌年には復興工事になりました。湯元から6kmの引き湯をし、完成を見た十文字岳温泉は豪華絢爛たるもので、全体的構想は、江戸の吉原と同じようであったと言われています。十文字岳開発はラスベガス開発にも匹敵するような大プロジェクトのであったと解釈します。
十文字岳復活による税収増、農産物調達による地域経済への大きな波及効果、さらに、酸性泉としての大きな薬事効果などが復活プロジェクトのキーワードではと推測致します。抗生物質のない時代、なかなか直りにくい傷口は岳の湯に浸かることで薬効がテキメンに現われたのでしょう。酸性泉は自然湧出でしか得られないこともあり、低地に移転して通年営業できる場所での新規開業は総合的大プロジェクトでした。二本松藩が得意とする和算術により、引き湯工事設計や土木工事積算が意外と簡単であったのかもしれません。
写真は十文字岳温泉の絵図です。残念ながらこの温泉場は復興42年目の戊辰戦争兵火で原野に帰し、その後も移転復興を2度繰り返し、8kmの引き湯をし現在の岳温泉に至っています。湿度の極端に多い6月から9月には日本一サッパリする温泉が岳の温泉だと自負いたします。pH2.5の酸性泉はレモンや化粧水と同じ水素イオン濃度です。是非ともご入浴、ご体感ください。他の泉質とお比べになり感想もお聞かせください。
『天地明察』と二合田用水
今話題の『天地明察』(本屋大賞、著者・沖方丁)に二本松藩算学塾である礒村塾が出てきます。主人公の渋川春海が江戸の会津藩邸を出て、渋谷宮益坂の金王八幡宮にある算学絵馬を奉納に行く下りが礒村塾の名が登場する場面です。そこで出会うのが後に妻となる才女『えん』。碁打ち名門出の渋川春海が得意の算学と暦法の才能を会津藩主保科正之や水戸光圀見込まれ、困難な改暦事業を何度も挫折しながら成し遂げるという歴史小説です。金王八幡宮で春海が写し取った中で一番気になった算学絵馬の問が礒村吉徳出題であったのです。
『今、図の如く釣(高さ)が9寸、股(底辺)が12寸の勾股弦(直角三角形)があり、内部に直径が等しい円を2つ入れる。円の直径はいくらか?』
最初に出てくる3:4:5の直角三角形に内接する2つの円直径の問題がズーっと気になり、読み終えても回答が分からままですがハマッテしまうこの歴史小説の作家に感服です。是非、ご一読を。
この礒村塾の礒村吉徳は、京に生れ鍋島藩家人から二本松藩に召抱えられた和算学者として二本松市根崎の善性寺に眠ります。江戸時代の和算家として多くの弟子を輩出し、兄弟弟子には高名な関孝和がいます。この礒村吉徳の設計により作られた用水が二合田用水です。あだたら高原スキー場東側の烏川から取水して18km、複雑な地形を経て霞ヶ城に到達し今も流域の田圃を潤しているのがこの用水です。用水取水口から3kmほど下ったところからは酪農地帯でありウォーキングコースに沿って澄んだ水がゆうゆうと流れます。歩きながら和算学者よろしく直角三角形の相似形の比率から山の高さや木の高さを測ってみるのも気分転換にはもってこいです。キット…
さて、算学絵馬の問い「直角三角形に内接する2つの円の直径」は判明しましたか?
  北極星を基準にして各地の緯度経度を測り、日本初の天球儀を作った渋川春海のように、安達太良山のポイントを眺めながら相似形から高さを算出して見ましょう。和算による解き方で頭を回転させると、きっと心もリフレッシュし新しい発想が生まれるかもしれません。写真は取水口から5kmほど下がった二号田用水沿いの安達太良高原パノラマコースです。歩いた後は岳の湯に浸かりさらにリフレッシュできます。ちなみに186年前の十文字岳温泉へ移転時の引き湯設計は土湯出身の二本松藩算学家渡辺東岳によるものです。この場で改めて御礼を申し上げます。

龍馬伝と二本松
  先週の大河ドラマ『龍馬伝』に二本松藩儒学者である安積艮斎の名が登場して思わず喜んでしまいました。昨年の『天地人』の舞台がほとんど東日本だったこともあり、今年の『龍馬伝』は西日本中心の展開であり、誘客効果には結び付かないとまったく諦めていた矢先でした。安積艮斎は昌平校教授であり二本松藩校敬学館の教授も勤め、坂本龍馬や岩崎弥太郎らに多大なる影響を与えた人物です。また、日本人登山愛好家のさきがけ的存在で安達太良登山記の『西嶽』を著し、その中で十文字岳温泉に泊った記述もあります。
 さてもうひとつ、本日仕入れたばかりの『龍馬伝』との関わり。それは岩崎弥太郎が維新後の二本松と大いに関わって助けてもらった実話です。維新後の二本松は窮乏のどん底にあったようです。戊辰戦争の10年前から江戸湾の警備を任され富津お台場に毎年5百名の藩士を送り出し、また京都御所警護には藩主以下4年で3回約千名、さらに水戸天狗党騒動の追討に1111名、慶応2年の信達暴動鎮圧には5百名と大きな出費があり、さらに戊辰戦争そして敗戦と窮乏状態は相当悲惨なものと想像します。
  明治になり二本松藩が二本松県になったとき、窮状をリカバリーしようとして旧藩の足軽出身者の進言で何故か海運業の汽船を購入。手付金2万両は共同事業者が支払い、汽船の操作ミスから機関爆発し沈没。契約金の残り6万両の責任をアメリカの商社と間に入った土佐九十九商会(岩崎弥太郎が会長)に弁済しなければならず八方塞り状態になったようです。しかし廃藩置県ですぐに福島県になり6万両の負債がそのまま県に移行することになった事件は、岩崎弥太郎が二本松県が無くなるという極秘情報をくれたことによるらしいとのこと。またその後に、霞が城跡に製糸工場を作るときも九十九商会からの資金調達を容易に進められたのは、二本松藩時代の小会計・山田脩に多くの人脈があり、また岩崎弥太郎の持つ二本松への厚い温情があったからだろうといわれています。
  なぜ、身分の一段低い土佐藩士浪人出の岩崎弥太郎が厚い温情を向けてくれたのかは、戊辰役での土佐藩兵と二本松藩士の戦いぶりからであったと推察されます。大壇口での若干13歳の岡山篤次郎らの戦いぶりや、大手門(久保丁御門)で少年隊士の小沢幾弥が瀕死の重傷を負った所を見て介錯してあげたのも土佐藩士であったことなど、土佐藩内では二本松藩士の武士としての戦いぶりなどが正確に伝わり、敵への同情さえもあったことによるようです。
  以上の内容は特別講演会からお話です。写真は九十九商会との交渉に当たった山田脩の銅像。霞が城にあった製糸工場跡にあります。
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