やっちゃんのあぐだもぐだ
過去の記事
梵字石ルートのこと
安達太良山中に『梵字石』と言われている大きな自然石があります。
梵字の刻まれた年号は寛文十年(1670年)、高さ1.2m縦横4.5m程度の大きな岩の上部に刻まれています。刻んだのは、高野山の名僧で二本松の遍昭尊寺を開山した雲堂天岳和尚。この時から150年間の山中での歌舞音曲を許したとされる歴史的文化財です。この場所は、安達太良山系の代表的な山、鉄山(1709m)と矢筈が森(1673)が天にそびえる谷間の上部標高1500m付近にあり、この二つの山がまさに覆い被さるかのような位置にあり、二本松から会津への最短距離で往来できる歴史の道でもあります。この東側の下部が岳温泉の湯元であり、文政7年8月15日(1824年9月7日)までは、岳の湯=陽日温泉として栄えた温泉場です。この日の未明、北側の鉄山の一角の山崩れで温泉街全部が埋没し2百数十名の死傷者を出す事故が起きました。雲堂和尚が山留めの祈願に梵字を刻んで150年間の法力が解けた4年後に大惨事が起きたのはなぜか不思議な一致です。
さて、本題。実はこの梵字石を通る、古くから続く会津と二本松の道が1997年9月15日の遭難事故の影響で閉鎖されたままになっています。猪苗代町側になる沼の平ルートのガス中毒事故で4人の登山者が亡くなり、二本松側のくろがね小屋上部のルートも危険性があるとされ、閉鎖されたまま19年も経ちました。閉鎖から数年経った時から、事あるごとに関係者に働きかけ、この歴史的ルートの再開を働きかけていますが、未だ開通決定までは至っておりません。行政の過剰反応のせいで、猪苗代側の事故の影響で二本松側の大事な歴史的道が閉鎖されたままであり、この道が存在していたことさえ忘れ去ろうとしています。
ついでに安達太良山と近代登山の話。江戸時代から既に登山の範疇に入るような山登りが行われており、その走りとも言われる安達太良山登山記があります。その名は「西嶽」。安積艮斎(昌平黌教授、二本松藩校敬学館教授)が天保7年10月(1836)に帰省した折の45歳の時に著わした登山記です。前述の陽日温泉(岳の湯)が山崩れで埋没し、塩沢に十文字岳として復活して10年後、十文字岳温泉に一泊して、翌日念願の安達太良山初登山となり、下りは深堀の旧家・平近平宅を訪ね談笑して夜遅く二本松の自宅に戻って実家の母に安達太良山登山の感想を話したと記されており、全文から180年前の安達太良登山の様を現在の登山と重ねて想像できます。ちなみに日本近代登山における白馬岳の先登第一は北安曇郡長の窪田畔夫(当時45歳)と二本松藩士で信州教育の祖・渡辺敏(はやし)(当時36歳)が明治16年(1883)のに初登頂とあり、ウェストンの白馬岳登山の明治27年(1894)の11年前だったとの記述も目にしました(大内賢治氏記事の山と渓谷1982年10号)。
先頃お亡くなりになった田部井淳子さんも最初の登山は三春の裏山、そして安達太良山、そしてエベレストにつながったと良く話していたのを記憶しています。
安達太良山は悠久の山です。古代からの山道を再開通させたく、今回の『あぐだもぐだ』といたします。写真は梵字石、345年前からの文化遺産です。