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まちづくり三遷
 【孟母三遷】とは意味が違いますが、【岳温泉三遷】について記します。
 岳温泉は、文政7年(1824)8月15日未明の山崩れで、湯元の温泉場33棟の家屋(宿7軒)が埋没、死傷者200余名の大事故となり全滅し、この湯元からの引き湯を試み、温泉場ごと引っ越しを余儀なくされた類い稀な運命の温泉です。
 【一遷目】の引越し先が十文字岳温泉です。湯元から標高差約500m、長さ6kmを引き湯し温泉場づくりをせざるを得なかったのです。当時の『岳湯再興御普請人足並諸品積立仕様帳』には「距離3084.5間(5552m)、人足合計44,521人」と記され、引き湯工事だけに、今の価格で凡そ7億円の計算が立ちます。湯樋は2本線、松材2間ものに樋を掘り、土管を入れての引き湯です。温泉町づくりには、二本松藩により、商家からは苗字帯刀付きでテナントを募る大プロジェクトとなり、2年後の1826年開業となりました。新天地に町割りをし、通り名を亀沢町、中ノ町、鶴峯町とし、数寄風総檜2階建47棟、4カ所に浴場を配した温泉型テーマパーク(写真)の開設となりました。この時に温泉分析を藩医の宇多玄微が江戸の宇田川榕庵に依頼した事もあり、『諸国温泉効能𨫝』の番付では前頭2枚目に位置し東北一番の温泉でもありましたが、42年後の戊辰戦争にて消滅することになります。
  【二遷目】は、十文字岳温泉から深堀小屋への移転、浴場の開業は1871年です。当時の『福島県鉱泉誌』には温度(深堀)摂39度(気温8度時)、浴客年1万人の表示があります。元々の一般民家に少し客室を作り、8qの距離を元湯の泉源4カ所(熱湯、鐵湯、黒湯、川端湯)を合わせて木造埋樋にて路線変更の引き湯でした。また二本松からの道中も「建石峠の峻坂は便を得ず」と記され、冬の温泉温度も低く零細な温泉場であったのでしょう。それでも案内書には「寛平9年9月より浴場を開く」「徳一大師による発見」「水戸黄門が湯治し病を全癒」と記述されており気位だけは高い温泉場であったようです。
  ここも1903年10月、宿のランプの火不始末で全焼してしまいました。
  【三遷目】の移転先が現在地です。場所選定に3年かかり、1906年に開業しました。辰已の方角に開けた国有地に、温泉神社を最上部に、通りの真ん中に共同浴場2カ所、旅館と商店、町屋が間口を8間にして散策できる温泉地形成となり、最下部の池と小山の景観を生かしながら、周辺部には散策できる小道や桜並木を作るなど、明治時代末期の都市計画に基づいて作られたのが岳温泉です。
  被災し三遷から115年。岳温泉の変遷は、『引き湯』と『まちづくり』の教科書みたいな温泉場であると考えます。こんな時に新型コロナウィルスにより、観光客の流れがストップしてしまいました。コロナ禍社会からの脱出策を『岳の湯』に浸かって考えたいと思います。温泉街ぐるみで三度も引き湯と引っ越しをしたのは、自然湧出でしか得られない薬効ある温泉であったからです。歴史の中にきっと解決策があります。