やっちゃんのあぐだもぐだ
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二本松城のこと
7月29日は二本松のお城が落ちた日です。前日28日には霞ヶ城の千人溜にて少年隊顕彰の行事が行われ、市内の小学生による少年隊の剣舞や居合道が披露されます。29日には大隣寺の少年隊墓所の前で墓前祭が行われ、丹羽家18代当主、藩士の会などの皆様に参列頂き少年隊の霊を弔います。
再来年で戊辰戦争150年を迎えるので、この日のことを再現する意味で振り返ってみたいと思います。私の知識は、友人の相原秀夫著「二本松戊辰戦争史」や渡部由輝著「二本松戦争」からの受売りですがご容赦ください。
この日の二本松は戦場と化したのです。二本松城をめざした西軍は供中口、大壇口の2カ所から二本松に攻め入りました。東側の供中口から攻め入った薩摩、長州、備前兵で編成され午前五時に小浜を出発し、阿武隈河畔を渡るための戦闘が開始され供中口から阿武隈川を二本松藩兵の抵抗に遭いながらも越え、三森山町口では会津兵、仙台兵の応援も得ながら戦っており、また高田口へも別れて西軍が押し寄せ、亀谷戦となるなどいわゆる市街戦的様相を示したのです。一方、南側の大壇口については二本松藩の防衛拠点として重視され、25日には丹羽兵庫隊、27日夜には丹羽右近隊、28日朝には丹羽伝十郎そして木村銃太郎、二階堂衛守を隊長、副隊長とした少年隊士22名こと木村砲兵隊も守備についたのです。ここでの戦闘が開始されたのは午前8時頃、こちらは薩摩と土佐藩の藩兵が三方向から攻め入っています。木村砲兵隊は近づいてくる敵をできるだけ近くに引寄せ、砲弾を放ったようですが、敵の西軍の兵力、装備などの差は歴然としており、木村隊長は西軍の新式銃の銃弾に倒れ、指揮官を失い少年たちも被弾し大壇口の戦いは30分程度で終了したともいわれております。同じ大壇口で警護に就いていた青山助之丞、山岡栄治の二人の青年兵士は勇猛果敢に敵陣に切り込んで入って敵にも損傷を与えたと伝わっており、これが大壇口の二勇士です。木村銃太郎を隊長とする砲兵隊25名のうち少年兵の死者9名と死亡率が高かった戦場です。一方、供中口からの西軍の浸入に備えるために老人隊に配属された少年兵には死者が出なかったのは老人兵達が先のある少年兵に「生き残ってこれからの世のために尽くすことだ」と言われ老人達が戦って退却させたためだとも伝わっています。
大壇口古戦場には西軍の隊長・野津道貫の『うつひとも うたるるひとも あわれなり ともに みくにのためと おもえば』石碑があります。
二本松は全藩をあげて城を枕にして討死するまで戦った唯一の藩です。二本松の戦死者337名、仙台藩、会津藩などの他藩からの応援兵士と併せて1000名近くが戦死しています。会津戦争での会津藩の死者は約2500名。写真は大壇口古戦場です。往事を偲びにお立ち寄りください。