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歴史の回り舞台二本松1585年編
二本松城築城600年の記念の年に当たる菊人形は11月24日で第60回目を無事に終えました。菊人形のテーマは二本松ヒストリア、二本松の歴史を紐解くような場面構成でした。600年の歴史を菊人形の場面だけで表現するのはかなり難しいことですが印象はいかに?室町幕府によって畠山氏の奥州探題が置かれた史実は二本松が地理的に重要な位置にあったことの所以だと私は解釈します。畠山氏二本松から丹羽氏二本松、そして明治から現代への歴史絵巻を菊人形で表現する試みは場面と説明文だけでは難しくとも、時代エポックの菊人形の鑑賞で600年の歴史を楽しんで戴けたかと考えます。
さてヒストリアの一場面は『粟之巣の変事』、これは天正13年(1885)に二本松藩主畠山義継が小浜の宮森城(旧岩代町)の伊達輝宗に和睦に行った際に、不穏を感じた義継が帰り際に輝宗を拉致し、二本松に向かう途中の粟之巣にて、危急の報に鷹狩りに行っていた息子の伊達政宗が追いつき親と敵将を二人とも鉄砲で射殺した事件です。このような長い話を菊人形の一場面だけで完結させるのは至難の業であることを承知の上で場面構成するのですから大変です。この話は前後の話を理解しないと、どうして伊達政宗が登場するのかと思うひともいるでしょう。その話の一つに伊達政宗の非情さを世に知らしめた、悲劇の小手森城(旧東和町)の話です。この話はこの年の8月23日〜27日にかけて小浜城主大内定綱の領地として菊池顕綱が守る小手森城に伊達政宗の軍が兵を進め籠城する農民を含め老若男女800余名と犬猫畜生までの全てを殺傷した悲劇として伝わっています。大内定綱と畠山義継が組んで政宗の岳父・田村清顕氏から攻撃を食い止めようとしていた時の事件が粟之巣の変事です。政宗は父輝宗の初七日法要を済ませ弔い合戦を仕掛け二本松城を包囲したところが二本松城救援の佐竹氏率いる3万の軍勢・南奥州諸侯連合軍と激突したのが11月17日の本宮の人取橋決戦です。この話も様々な展開を見せるのですが長いので次回以降にします。
さて、このような伊達政宗の戦いのあとが残るのも二本松を中心とした中通りと会津です。時代が変わって平和な徳川時代に入り参勤交代で仙台伊達藩が二本松城下に入る時に大名行列の鉄砲隊が火縄に火をつけて通ったこともあり、お殿様が変わっても伊達家は二本松城を警戒していたという逸話もあります。
また、会津の身不知柿(みしらずかき)は、二本松では西念寺柿と言います。伊達政宗に追いやられた大内家係累の宮森家が小浜の西念寺の柿の木を会津に持って行き会津の地で品種改良を重ねて身もたわわな特産品にしたとのことです。ちなみに会津の造り酒屋のルーツも二本松です。栄川、花春、宮泉酒造の宮森家、末広酒造の新城家も畠山家の係累で重鎮、二本松城600年のヒストリアです。写真の会津身不知柿は熱塩温泉山形屋さんのFacebookからお借りしました。