やっちゃんのあぐだもぐだ
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岳山の国境紛争
世界各地で国境争いが目立つこの頃です。尖閣諸島や竹島は身近に感じるので何とか早く解決しないものかと思いますね。
  江戸時代に二本松藩と会津藩の領界争いがあり大岡越前守まで登場して100年越しで解決したお話があります。
  事の発端は丹羽家二本松藩と保科家会津藩が誕生した寛永20年(1643)8月。それまでは会津40万石に移封された加藤家が会津も安積・安達郡も治めており、山中にあったわが岳温泉の御先祖が沼の平噴火口周辺の硫黄や湯垢(湯花)の採掘、採取を行い、沼尻の湯の湯銭まで徴収していたのが、突然二本松藩と会津藩に領界を区切られたことにあります。
  1643年8月の幕府の記録には二本松藩が金五両にて二本松硫黄の運上が記載されており、二本松藩が経済的権利は持っていたようです。
この時から20年程たった寛文4年(1664)が第一回裁判です。この時は二本松藩と会津藩が幕府に持ち込んだところ控室にて会津藩役人の友松勘十郎が、二本松藩役人の丹羽右近正行に対して、「貴殿、この度の御用は会津領岳山の一件でござろうな…」と言われて、右近は「左様で……」と言いかけ、ハッと気が付き「…ではござらん。して貴殿の御用は二本松領岳山一件について……」と言ったとか言わないのやりとりで、間もなく幕府の役人が裁判の場に両藩の担当役人を誘導しようとしたところ、会津藩役人から有無も言わせず「武士に二言は無かろう…」と言われ、和議申立、裁判取り下げで会津藩の勝訴となり、丹羽右近は退廷し二本松藩公に詫びて責任を取り割腹して詫びたことに有ります。
  この事を二本松藩に享保19年(1734)に着任した儒学者の岩井田昨非が藩政改革ヒアリングで耳にし、そこから20年がかりで岳山(安達太良山)の領界を取り戻す話の展開となります。岩井田昨非の作戦は、20年後に裁判に持ち込み二本松藩を勝訴に持ち込むことでした。その中で、三尺彌源次という忍者のような身の軽い人物を使い、稜線に炭を埋め、会津藩との領界をできるだけ西側へ押し込むべく境界の曲がり角に真弓の木やユルの木を植えさせ、さらに弥源次に会津若松城下にて安達太良山が素晴らしい山であることを漢詩にして流行らせ感心を惹きつけ、20年の時が過ぎるのを待ったのです。そして延享3年(1746)に深堀小屋(岳の湯)の人間を使って会津領の萱野に侵入し目立つように刈らせたのです。会津側の農民は代官所に訴え、ついに幕府の裁判に持ち込み、何年もかかって現地調査も何度となく行い宝暦5年(1755)12月2日に裁決されたのです。現在の領界は船明神山から石筵川上流を二本松領になっていますが、会津藩から伝わっている石積み壇とされている石積みのケルンは安達太良山頂から牛の背の峰に多くありここは二本松藩領です。岩井田昨非は藩政改革の為に招聘された儒者ですので本宮と郡山の平野を潤す五百川の源流を二本松藩領にするために仕組んだ作戦であったと私は解釈します。因みに貴船神社は1000年ほど前は船明神山に在ったと神社縁起には伝わっており、岩井田昨非の策の神髄のヒントとなりました。写真は会津側から見た沼尻峠こと二本松藩馬の背です。今は立ち入り禁止です