やっちゃんのあぐだもぐだ
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水戸黄門公と湯守のこと
やっぱり、異常気象ですね。今まではあまり見なかった気圧配置が頻繁に現れるようです。昔は台湾坊主と言っていた南岸低気圧が発達し過ぎ、関東甲信越に2週続けて豪雪をもたらし、福島県の中通りや浜通りも大雪でマヒの状態です。ソチオリンピックのスキー競技会場にも時ならぬ雨が降り世界中が異常気象だと思われます。
さて、前回の続きで水戸黄門公にもお泊り戴いたお話。ご宿泊日は元禄11年(1698)の8月に4、5人にて陽日(元岳)温泉にお泊りのようです。この時の黄門さまの年齢は満70歳、湯守の平近平が黄門公に気づき懐紙に書いたのを佳紙に書いていただいた歌が『山の奥にかゝる男をミちのくのの二本松なら又も近平』です。湯守近平が印童をお願いしたところ携行せずと断られたとのこと。この時に名づけられた沸き水が『金明水』であり、今も引き湯脇の登山道に水飲み場があります。
二本松寺院物語には、大隣寺九世の千厳智拙和尚が元禄年間に黄門公が病になられた折、水戸の高僧・黙室風外和尚が嶽(岳)温泉の薬湯の湯花を求めに来られたとあります。黄門公は薬効空しく元禄13年12月(1701年1月)に72歳6か月で他界されたようですが、岳の湯の湯治のあとに湯花の薬効を病気の治癒に使われていたとは驚きです。黄門御一行ご宿泊の136年後・文政7年に、鉄山(1708M)の山崩れで温泉地全部が埋没し二百数十名の死傷者を出した大参事がありました。その時の遭難者リストには水戸藩士族14名、水戸一般13人、常州2名、鉾突2名と合計31名もあり、いかに水戸藩のお客様にご愛顧頂いていたかが推察できます。
この文政7年の山崩れ事故の後、すぐに再興なったのが十文字岳温泉です。この時の引き湯距離は約6キロ、湯樋は松材の2間物(3.6m)に4寸又は3寸(12〜9p)の樋を掘ったもので土中に埋めて引いてきたようであり、源泉は熱ノ湯と滝ノ湯からの二本樋で来ていたとも言われており、御殿湯の下に惣熱湯、総滝湯と記述もあり高温、中温の二線引き湯の可能性が高いと思われます。ちなみに文政12年(1829)に二本松藩医の宇多玄微が江戸の宇田川榕庵に温泉分析を依頼したのは2本の陶器瓶であり、十文字岳2本線引き湯は可能性としては高い気がします。復活なった家並みは見事な総檜造り2階建てであり、江戸の吉原とも見紛うようだとの話も残っています。残念ながらこの十文字岳温泉は42年後の慶応4年(1868)春には、もぬけの殻となり、西軍の拠点になることを恐れ焼かれてしまったのです。長い温泉の話の続きは次回に続けたいと思います。
写真は豪雪の直後の温泉管理の雪の穴、深さ6mもあるようです。真冬でもこうやって悠久の温泉を守ってもらっています。感謝感謝です。気を付けてください。