やっちゃんのあぐだもぐだ
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龍馬伝と二本松
  先週の大河ドラマ『龍馬伝』に二本松藩儒学者である安積艮斎の名が登場して思わず喜んでしまいました。昨年の『天地人』の舞台がほとんど東日本だったこともあり、今年の『龍馬伝』は西日本中心の展開であり、誘客効果には結び付かないとまったく諦めていた矢先でした。安積艮斎は昌平校教授であり二本松藩校敬学館の教授も勤め、坂本龍馬や岩崎弥太郎らに多大なる影響を与えた人物です。また、日本人登山愛好家のさきがけ的存在で安達太良登山記の『西嶽』を著し、その中で十文字岳温泉に泊った記述もあります。
 さてもうひとつ、本日仕入れたばかりの『龍馬伝』との関わり。それは岩崎弥太郎が維新後の二本松と大いに関わって助けてもらった実話です。維新後の二本松は窮乏のどん底にあったようです。戊辰戦争の10年前から江戸湾の警備を任され富津お台場に毎年5百名の藩士を送り出し、また京都御所警護には藩主以下4年で3回約千名、さらに水戸天狗党騒動の追討に1111名、慶応2年の信達暴動鎮圧には5百名と大きな出費があり、さらに戊辰戦争そして敗戦と窮乏状態は相当悲惨なものと想像します。
  明治になり二本松藩が二本松県になったとき、窮状をリカバリーしようとして旧藩の足軽出身者の進言で何故か海運業の汽船を購入。手付金2万両は共同事業者が支払い、汽船の操作ミスから機関爆発し沈没。契約金の残り6万両の責任をアメリカの商社と間に入った土佐九十九商会(岩崎弥太郎が会長)に弁済しなければならず八方塞り状態になったようです。しかし廃藩置県ですぐに福島県になり6万両の負債がそのまま県に移行することになった事件は、岩崎弥太郎が二本松県が無くなるという極秘情報をくれたことによるらしいとのこと。またその後に、霞が城跡に製糸工場を作るときも九十九商会からの資金調達を容易に進められたのは、二本松藩時代の小会計・山田脩に多くの人脈があり、また岩崎弥太郎の持つ二本松への厚い温情があったからだろうといわれています。
  なぜ、身分の一段低い土佐藩士浪人出の岩崎弥太郎が厚い温情を向けてくれたのかは、戊辰役での土佐藩兵と二本松藩士の戦いぶりからであったと推察されます。大壇口での若干13歳の岡山篤次郎らの戦いぶりや、大手門(久保丁御門)で少年隊士の小沢幾弥が瀕死の重傷を負った所を見て介錯してあげたのも土佐藩士であったことなど、土佐藩内では二本松藩士の武士としての戦いぶりなどが正確に伝わり、敵への同情さえもあったことによるようです。
  以上の内容は特別講演会からお話です。写真は九十九商会との交渉に当たった山田脩の銅像。霞が城にあった製糸工場跡にあります。