やっちゃんのあぐだもぐだ
過去の記事
2005/10 の記事一覧
『戦国の雄から二本松藩主へ』展開催中
「二本松藩主として知られる丹羽氏は、じつに数奇な運命をたどった戦国大名のひとりです。……」というキャッチコピーではじまる丹羽家秘蔵資料展が開催中です(期間;10/15〜11/27・場所;二本松市歴史資料館)。昨日、開場式テープカットがあり十八代藩主の丹羽長聰(ながとし)様も二本松にお出戴きました。丹羽家からは代々伝わる鎧、書簡、掛け軸、硯箱、膳など366点ほどを寄託され、今回は67点が展示されています。初代長秀公の書簡はもちろんの事、豊臣秀吉朱印状や前田利長起請文など歴史的に貴重なものばかりであり、特に今回寄託されたのが長秀公着用の甲冑です。初代長秀公、二代長重公が実戦で着用したものであり、実戦の弾痕が3箇所もあります。銅版を幾重にも重ねた鎧は貫通しないのだそうです。金花猫塗唐冠兜と名付けられた兜の風格の違いに圧倒されます。猫の顔のデザインは魔よけの意味があるとの事ですが、戦国の世に生き残って織田信長の重鎮であった123万石大大名の風格を、この私でも感じたような気がします。丹羽長聰様が挨拶の中で「子供の頃にこのカブトを被り三輪車に乗って遊んでいた…」などと言っておられましたが、戦国大名の子孫の遊びは我々庶民とはまるで違っていたようです。前日に我が宿にお泊りいただき二本松史跡保存会(会長・鈴木弘治氏)の役員としてご一緒に会食をさせていただくことができましたが、世が世ならば、宿六の私は敷居の外側に居るべき立場です。平和な時代に生れてほんとうに幸せです。菊人形もいよいよ本番。二本松歴史資料館にも立ち寄っていただき、二本松の歴史をより深く感じていただければと思います。写真は資料館での丹羽様(右側)と奥方(左から2番目)の厚子様です。史跡保存会の鈴木会長(左端)と共に根本文化課長の説明に耳を傾けられ談笑されました。今回の企画展を機に、さらに丹羽家の歴史が詳細に解明され二本松藩がさらにクローズアップされればいいなと思います。
岳温泉学童疎開者のシダレザクラ植樹式
10月7日に岳疎開学寮連絡会の皆様の手で、シダレザクラの植樹式が行われ、鏡が池の隣にある緑が池畔の遊歩道沿いに11本のシダレザクラが立ち並びました。岳疎開学寮連絡会の皆様が「戦禍をくぐり抜け現在まで生き長らえることができた恩返しの一端として、平和こそふさわしい温泉の景観に寄与したい」との思いで今回の祈念植樹になったものです。岳温泉が疎開学童を受け入れたのは太平洋戦争の末期、昭和19年6月25日から20年10月27日までのことです。東京・牛込区内(現新宿区)の国民学校11校の学童383人(引率教師、寮母も含む)が岳温泉の9旅館に配宿されました。幼い子供達にとっては学童疎開の体験は、つらく寂しい不自由な生活だったようです。親兄弟から離れて、心細い上に食料不足でハラペコではあったものの、地元関係者の温かい気遣いに癒されて、60年後の今もなおあの時の肉親のような微笑を忘れることができないとも語っておられました。祈念植樹式の前日に扇屋旅館で行われた懇親の夕べには、戦後っ子の私も同席し色んな話を伺うことができました。「戦争末期の1年半の岳疎開が無ければ今の私たちが無かったかもしれない」、「東館のおばさんは厳しかったよ」、「始めてスキーをして地元の子供に岳弁で「さってろ!…(邪魔だからドケの意味?)」と言われた」など楽しく語ってくださいました。私の祖父一二が食糧の調達には大変苦労したと話していた事ともダブり、旅館や温泉地の原点は、限られた条件の中で精一杯のおもてなしをすることであることを再認識できた次第です。改めて、岳疎開学寮連絡会の皆様に御礼申し上げます。
 P/S 岳疎開学童全383人の内、未だ251人の方々とは連絡が取れないそうです。下記に連絡先を記します。
岳疎学寮連絡会  会長  清水武二   副会長 斧田太公望
               事務局  安倍忠男  大植桂子
〒274-0814 船橋市新高根4丁目15番17号  電話&Fax 047〜466〜8508 安倍忠男