やっちゃんのあぐだもぐだ
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私説・観光パラダイムシフト論
  昨年11月の降雪予測はカマキリの巣の高さによる予測でしたが見事に外れました。2年続きの暖冬異変を変えたい気持ちが降雪予測を狂わせたのかもしれません。予想だにしなかった新型コロナウィルス流行現象に覆い尽くされており、気が滅入ります。武漢でも、未だ非感染地域でも、何となく気が晴れずに過ごしているのではないでしょうか。
  西暦2020年は、将に観光パラダイムシフトの変換点にあるように感じます。以前から起きていたパラダイムシフトが、突然のコロナ禍で表面に出てきたように感じます。
  岳温泉は引き湯の温泉であり、源泉には1200年前の歴史的記録があります。標高1400m地点の湯元の絵図も残り、200年前の山崩れで、湯元と温泉街全部が埋没してしまった記録も二本松藩資料に現存し、この時の被災者リストから地域別マーケティングデータが取れます。山崩れ事故から復活の際、二本松藩第三セクターによる、場所の移転と温泉街づくり施工費も推測できます。遡って、室町時代後半、岳の湯と沼尻の湯の権利を手に入れた、初代湯守の話も残り、温泉地タイムトラベルができるのが岳温泉です。
  さらに、1100年頃の公家社会から武家社会に変わる直前、不治の病に罹った武士が27日間の湯治にて平癒の記録があります。江戸時代の温泉地形成は、英国重商主義の余波が山間の温泉場にも及んでいたかとの夢想も出来、山崩れ事故直後、二本松藩が温泉型テーマパークを開業させた理由も推察すると楽しくなります。富国強兵から近代工業化時代に入り今の岳温泉が遷り、直後にスペイン風邪流行にさらされた後に、湯樋の引き湯管になり、冬のオフ対策にスキー場が開発されました。戦後は団体客優先の観光地づくりがついこの間まで続いています。1990年代に入る頃、情報化社会論が巷に溢れ、それでも団体客はあり、少しずつ個人のお客様受入にもシフトしてきました。2011年3月東日本大震災と原発事故が起き、その9年目にコロナパンデミックに襲われたのです。この時がパラダイムシフトが現れた時であり、旅館予約がパソコンからスマホに急激シフトしました。コロナでの外出自粛、インバウンドの壊滅、従来からの受入体制の温泉観光地が無事でいるわけはありません。観光地の生き残りをかけた施策GoToトラベル効果は抜群、しかしながら団体はほぼ無くなり、三密回避現象はこれからもずーっと続くに違いありません。
 このような状況下、参加人員を伸ばした観光商品が岳温泉でも作られました。3年前から取組んだ『シャワーウォーク』がそれです。その他『ファットバイクツアー』『ヒストリア早朝ウォーク』などあり、気軽に自然に浸れる商品が価値観転換後の観光地商品になる予感があります。特に『あだたらワンダーランド・ネイチャーツアー』は、売れ筋商品に化ける予感がします。モニターツアー参加後の目の輝きが参加の前と後でこんなに違うのかとも感じました。これからも『ADATARA Activity』を充実させ、パラダイムシフトに対応できる温泉地にしたいと思います。写真は、温泉街を少し登ったところの雑木林の中です。森の動物の痕跡にも気付きます。
スキー場の垂直移動
『100年前で1.5度も上昇』とのコラム記事が目に留まりました。人気お天気キャスターの斎藤恭紀天気予報士が似顔絵付きで、100年間の気温上昇の話が出ており、地球温暖化が気になる人間にとっては、時宜を得た記事だなと思った次第です。その4日前、日経新聞日曜版に『世界が見える。日本が見える』「さんま不漁 過去最低」の記事が大きく掲載され、同じ時期に同じ思考形態になることがあるものだと感じました。さらに、今朝、斎藤さんコラムに『海水温高いと不漁に』「はらこ飯を作ろうとスーパーに行くと、ピンポン球くらいの量のイクラが600円。なぜ高値か調べると、国内の秋サケが空前の不漁……」との記事。斎藤さんのキャラクターとシャベリが面白く、福島テレビ天気予報を楽しみな一県民である事を公表いたします。
  さて当地のこと、あだたら高原岳温泉は、2年続きの超超超雪不足に襲われ雪不足に頭を抱える温泉地です。スキー場の開設は昭和4年、91年前のことです。岳スキー場として最初の開設は若草山第2スキー場と呼ばれていました。第1スキー場は温泉神社の裏側にあり二つ併せて岳スキー場でした。第1と第2スキー場間の距離は1.5km、昭和40年頃まではスキーで滑って温泉街まで戻れました。このスキー場の標高は神社裏が528m、若草山のボトムが700mの位置になります。現在のあだたら高原スキー場のボトムは950mであり、神社裏スキー場からは標高差420m、若草山スキー場からは標高差250m、標高による温度低下の机上計算でも、岳温泉からは2.5℃、第2スキー場からは1.5℃、上部にスキー場が移動し、かろうじて雪不足を解決できる高さになっています。昭和38年に市営あだたらスキー場として、現在の高さまで移転した発想と当時の開発意欲には感心いたします。
  安達太良山全体の植生の変化についても気になります。最近、ナラの木の立ち枯れが目立ってきました。岳温泉周辺の森はナラの木が多く、高原全体の自然景観の特徴となっています。ところが、今年は黒くなって葉っぱが付かず、立ち枯れが目立ち始めました。本州北端の白神山地でもナラ枯れが初確認されたらしく、世界自然遺産地内の立ち枯れは大きく報道されました。枯れる原因は害虫が持込んだ菌で幹の樹液の流れる管を詰まらせるのが原因のようです。ナラの木は冷温帯地域(福島から道南までの名称)の大事な景観形成の樹木です。根本的な解決が急がれます。
  100年前の気候は、緯度で100km北へ移動し、郡山市の位置が岩手県一関市の位置に移動したようです。スキー場の設置のように垂直移動だけでは、これ以上温暖化が進むと、冬もプラスノーゲレンデにするほか、無くなるかもしれません。ストップ温暖化を願って、昭和29年の若草山スキー場の写真を掲載しました。雪の降る冬の到来を、心から願っています。
 
火山三兄弟のこと
安達太良山は活火山であり、今年は噴火120周年に当たります。明治時代に磐梯山と安達太良山でどちらも噴火があり、話題として取上げてみます。
磐梯山の噴火は明治21年7月15日の水蒸気爆発で山体崩壊が起こり、小磐梯が消失し、岩屑なだれ、火砕サージによる、爆風、土砂流に村々の犠牲者は477名が死亡するという、明治以降の近代になって最大の火山被害でした。日本の火山研究が進展したのはこの噴火がキッカケになりました。
そのあと、明治33年7月17日に起きたのが、安達太良山噴火であり、沼の平にあった硫黄鉱山の作業員や家族77名が犠牲になりました。何故かちょうど12年目であり、子年に当り因縁の深さを感じます。
磐梯山噴火のことを知らしめるために作られたのが磐梯噴火記念館です。今年が安達太良山噴火120年に当たり、特別展を開催中であり、さらに現地での火山観測会なども開かれています。沼の平噴火口の500m下部にある沼尻温泉は、一カ所湯元から自然湧出する温泉としては日本一の湯量を誇ります。この源泉は1643年に二本松藩と会津藩に分れる前は、岳の湯の湯守である平近平が権利を所有していたと推測されます。馬の背の稜線で両藩に分れた時から、双方に覚え書きがあり、平近平が運上金五両を会津藩へ毎年支払っていました。岳温泉深堀村が建てていた温泉神社が湯元にあり、さらに湯小屋では小屋銭五文を取っていた記録もあります。
当然のことながら、稜線境界をめぐって会津藩と二本松藩の争いが勃発したのは両藩に分れた11年後でした。表向きは沼の平の硫黄と湯花の採掘権をめぐっての争いでしたが、最初は会津領岳山とする主張に会津藩に二本松藩が負け、担当者が切腹。この90年後に、石筵川の源流を二本松藩に繰り入れるために起された裁判で二本松岳山になったことも追記致します。この時の裁判には大岡越前守も登場し、決着は二転三転し1755年に裁断が下されました。安達太良山頂から北側稜線が正式に国境ラインとなったわけです。
磐梯山噴火記念館のご厚意により開かれた『安達太良噴火120年』特別展は11月8日まで開かれています。
安達太良山と磐梯山と吾妻山は噴火三兄弟みたいな活火山です。山の高さの覚え方は「娘17歳は安達太良山」―1700m、「番茶も出花の18,19歳が磐梯山」―1819m、吾妻山は単独峰ではないので記しません。山頂付近は紅葉が始まりました、是非お出かけください。写真は沼尻温泉の湯元、岳の湯の8倍の湧出量があるところです。
そろそろやめてもコロナ節
世界中の人々が、半年間もコロナに振り回され、ヤキモキしながら旅へ出たい気持ちが目に見える夏休みであり、また、2次流行の懸念報道が世界のニュースから流れる、いつもとは違った感覚の夏でした。
経済活動が止まらないように、アクセルとブレーキを交互に踏む自動車レースのような経済運営をどの国もやっているに違いありません。
自分もこの半年間、隣県を除いてほとんど、どこにも出かける事がありませんでした。
元々、岳の夏は下界よりは遙かに涼しく、7月〜8月は、岳温泉外に出る事を嫌うタイプの人間が多いのが我が岳温泉です。それでも今回ほど長期に亘って地域以外のことを知る機会が無く、毎日のニュースやワイドショーも、見飽きた感があります。おそらく、同じような感覚の人が多いのではないでしょうか。都会暮らしの方々も、テレワーク推進とやらで、自宅にて朝から晩までケジメも付けづらく仕事をし、同様に飽き飽きした感覚になっているに違いありません。
観光地はほとんどの夏祭りが中止となり、祭が準備されても伝統を絶やさないために神社で少人数の氏子で会合を開く程度です。そんな中、本格的地域イベントがようやく開催されることになりました。それは、『OSJ安達太良トレイル50K』です。10年前の東日本大震災直後の9月にも開催が危ぶまれ、それでも実施したイベントです。お陰で、今回で11回目の継続開催となります。但し、今回は前夜祭パーティー無し、スタートは4人ずつ5秒間隔、9月5日は10kmショートコース、2日目はロング50kmです。850人のフルエントリーであり、トレイルランナーに取ってはコロナ騒ぎの中、待ちに待った山岳レースになると思います。トレラン競技以外でも前年よりも繁栄しているイベントもあります。山に登る人が増加しているように見え、あだたら高原スキー場のイルミネーションも来場者が前年よりも上回っています。また、岳温泉観光協会が3年前から取組んで来たアクティビティの一つであるシャワーウォークが大人気、連日多くの参加者で賑わっております。スキー場に隣接した烏川の渓流を利用しての、沢登りですが、ウェットスーツを着込み、ライフジャケットとヘルメットを付け、滝壺や急流に挑みます。30℃超の気温であっても、渓流の水温は12℃、夏にしかできない非日常体験の冒険です。
連日の猛暑とコロナ騒ぎに辟易し、条件反射的に鼻歌に出てしまった歌が『小林旭の自動車ショー』。ご存じの方も多いと思いますが…「あの娘をペットにしたくって…(中略・略・略・略)…そろそろやめてもいいコロナ!」暑さとダルさにかまけて、口ずさみたくなりましたことをお許しください。
安達太良高原で免疫力アップし、コロナと共生できるようにしませんか。谷川の渓流は清々しく、ほんとの空には赤とんぼが飛び交います。是非お出かけください。
不思議感覚2020年前半
2年続きの超雪不足の懸念だけが頭の中にあったのが、昨年の12月。まさか正月明けから、新型コロナウィルス騒ぎが今のような展開になるとは誰が想像できたことでしょう。手前味噌ですが、『あぐだもぐだ』を16年間書き続けたおかげで、今までに感じた事も無いような事に気付くようになり、今年は新春から不思議感覚の日々を過ごしております。『あぐだもぐだ』なる単語は地元の山仕事の人が使ってのを、ブログ名に拝借しただけですが、岳温泉近辺では「いろいろ」とか「ごちゃらごちゃら」の意味です。山形ではモノを極限まで使った末に残った「木屑や藁くずなどのゴミ」を言うらしく、丸森には『あぐだもぐだカレー』がありこちらは「あれもこれも」のこと、どこも土地柄を表しており、縄文時代の狩猟採集生活では、何でもかんでも興味を持つことが生存本能であり人類の原点であるとの意を強くした次第です。
  正月明けに、武漢での新型コロナウィルス突然の流行と感染防止対応の素早さに驚き、春節での中国人旅行者姿が恐怖の対象となった中、そんなに恐れるほどではないけど、お互い気を付けよう的自己防衛意識が、日本の雰囲気であったと思います。2月にダイアモンドプリンセス号でのクラスター発生は、一度だけ乗船した経験もあり、船の構造も大体分かるので、心もとない対応にヤキモキもしていました。さらに騒ぎがイタリアに飛び火し都市閉鎖、ベネチアのカーニバルもマスク付き怪人や、アルプスのスキー場閉鎖の報道には大好きなところであり特にショックでした。さらに首相の自粛要請、日本国中がコロナパンデミックに巻きこまれ、オリンピックも延期決定、3月はおっかなびっくりお客様の受入、4月になり計画休館日の設定、同じ岳温泉で某ホテルの突然の倒産。ほとんど全旅館が休館のままGW突入。首都圏での感染拡大が鎮静化し、いよいよ6月からは徐行運転的お客様受入、県民割宿泊促進も感染者微減の中行われ7月突入でした。
  さて、この時に偶然に見た天気図が日本列島と相似形の弓なり前線、上海から納沙布岬への梅雨前線図、生れてはじめて見る美しさに、思わずのスマホ収録を7月2日にしてしまいました。まさか今年は梅雨前線がズーッと居座り、大きな水害を日本列島各地にもたらし続けるとは、だれがも想像できなかったと思います。さらに、中国本土の三峡ダム決壊の懸念の報道にも驚いております。
  コロナ感染症がいつ収束するのか不安の日々です。冬の雪不足から気象正義の話も出したいところですが、コロナによる行動自粛のお蔭で、少しばかり日本の古代史を学ぶ時間が取れました。その中に、倭国の女王卑弥呼のキャラクターは、祈祷師よりも、天才的気象予報士であったとの文献には納得でした。朝鮮半島にて使われていた鉄製品を携え、丸太船にて日本海を渡り切るには天気予報が最大重要事項である、との断定に納得し、7月2日18時の天気図を掲載します。梅雨明けとコロナ明けはいつになるのでしょうか?
まちづくり三遷
 【孟母三遷】とは意味が違いますが、【岳温泉三遷】について記します。
 岳温泉は、文政7年(1824)8月15日未明の山崩れで、湯元の温泉場33棟の家屋(宿7軒)が埋没、死傷者200余名の大事故となり全滅し、この湯元からの引き湯を試み、温泉場ごと引っ越しを余儀なくされた類い稀な運命の温泉です。
 【一遷目】の引越し先が十文字岳温泉です。湯元から標高差約500m、長さ6kmを引き湯し温泉場づくりをせざるを得なかったのです。当時の『岳湯再興御普請人足並諸品積立仕様帳』には「距離3084.5間(5552m)、人足合計44,521人」と記され、引き湯工事だけに、今の価格で凡そ7億円の計算が立ちます。湯樋は2本線、松材2間ものに樋を掘り、土管を入れての引き湯です。温泉町づくりには、二本松藩により、商家からは苗字帯刀付きでテナントを募る大プロジェクトとなり、2年後の1826年開業となりました。新天地に町割りをし、通り名を亀沢町、中ノ町、鶴峯町とし、数寄風総檜2階建47棟、4カ所に浴場を配した温泉型テーマパーク(写真)の開設となりました。この時に温泉分析を藩医の宇多玄微が江戸の宇田川榕庵に依頼した事もあり、『諸国温泉効能𨫝』の番付では前頭2枚目に位置し東北一番の温泉でもありましたが、42年後の戊辰戦争にて消滅することになります。
  【二遷目】は、十文字岳温泉から深堀小屋への移転、浴場の開業は1871年です。当時の『福島県鉱泉誌』には温度(深堀)摂39度(気温8度時)、浴客年1万人の表示があります。元々の一般民家に少し客室を作り、8qの距離を元湯の泉源4カ所(熱湯、鐵湯、黒湯、川端湯)を合わせて木造埋樋にて路線変更の引き湯でした。また二本松からの道中も「建石峠の峻坂は便を得ず」と記され、冬の温泉温度も低く零細な温泉場であったのでしょう。それでも案内書には「寛平9年9月より浴場を開く」「徳一大師による発見」「水戸黄門が湯治し病を全癒」と記述されており気位だけは高い温泉場であったようです。
  ここも1903年10月、宿のランプの火不始末で全焼してしまいました。
  【三遷目】の移転先が現在地です。場所選定に3年かかり、1906年に開業しました。辰已の方角に開けた国有地に、温泉神社を最上部に、通りの真ん中に共同浴場2カ所、旅館と商店、町屋が間口を8間にして散策できる温泉地形成となり、最下部の池と小山の景観を生かしながら、周辺部には散策できる小道や桜並木を作るなど、明治時代末期の都市計画に基づいて作られたのが岳温泉です。
  被災し三遷から115年。岳温泉の変遷は、『引き湯』と『まちづくり』の教科書みたいな温泉場であると考えます。こんな時に新型コロナウィルスにより、観光客の流れがストップしてしまいました。コロナ禍社会からの脱出策を『岳の湯』に浸かって考えたいと思います。温泉街ぐるみで三度も引き湯と引っ越しをしたのは、自然湧出でしか得られない薬効ある温泉であったからです。歴史の中にきっと解決策があります。
パンデミックと岳温泉
世界人口約77億人、コロナ感染者6,048,384人(0.08%)うち死亡者数368,404人(0.6%)。
100年前、世界人口約19億人の時、スペイン風邪感染者が約5億人(0.25%)、死亡者が1700万人〜5000万人(3.4%〜10%)と言われ、世界人口の26%が感染、死亡率10%、まさに歴史的大事件です。今と100年前の感染症パンデミックの状況を比較して、特異な国、台湾が気になります。人口2400万人、感染者442人、死亡7人(感染率0.002%、死亡率は1.2%)とすごい数字に見え、ちょうど100年前、岳温泉と一番関係の深かった台湾との関係もあり100年の歴史探訪をいたします。台湾での成功者である木村泰治氏に助けられた岳温泉が、スペイン風邪流行後の発展に繋がったことが判り、先行きの不安が少し解消したような気がしております。
 今の岳温泉は明治39年(1906)に作られた温泉地です。源泉地は安達太良山中の鉄山(1709m)の基部標高1450m地点にあり、約8km引き湯であり自然湧出の源泉を集めてパイプで引き標高540m地点で各浴槽まで配湯しています。そもそも引き湯の温泉場になった原因は、文政7年(1824)8月に山崩れがあり、湯元にあった岳の湯(元岳、陽日温泉)が埋没、2百数十名の死傷者を出す大惨事となった事に起因します。温泉の泉質が良く、地域からも愛されていた温泉の再興を藩で計画し、翼々年に6km下部に移転して作られたのが十文字岳温泉であり、47軒の総檜造2階建のいわば温泉テーマパーク型温泉地が作られました。この温泉地も残念ながら戊辰戦争にて焼失、 明治3年からは元々の麓の住居であった深堀にて細々と民家を改造した程度の温泉地営業でした。引き湯技術は生かされましたが、引き湯距離が8kmとなり冬期間は湯船到達温度が39度程度になり再度温めないと湯に浸かれなかったようです。この深堀温泉も明治36年9月大火で全焼、3年後に現在の地に再興となったのが岳温泉、写真は開業時の絵図面です。開業当初、内湯旅館は一軒のみ、二つの共同浴場を皆で共同利用していました。明治39年の開業から10年ほど経過したときに第一世界大戦が勃発、終戦と同時に世界景気が悪化し、スペイン風邪大流行、そして関東大震災と災厄が続き、岳温泉は地域ごと全体にかなりのテコ入れが必要な状態でした。この時の救世主が台湾土地建物(株)の木村泰治氏、台湾でのまちづくりに大いに貢献していた事業家でした。木村氏は引き湯木管の製造工作機をアメリカから輸入し、4,200本の木管に入れ替え、冬の温度の低下がなくなり、さらに二本松との道路整備にも私財を投入、観光インフラを整備しオールシーズン型の温泉地に変貌できたのです。木村泰治氏は、大館出身で当初は新聞記者として活躍、台湾併合の初期、台湾総督児玉源太郎や民政局長後藤新平、新渡戸稲造とはかなりの親交があったようです。後藤新平による台湾での阿片撲滅の功績は後世に残る語り草であり、今回のコロナパンデミック収束のモデル国台湾の公衆衛生施策『先手防疫』につながっていると推察できます。これを機に木村泰治氏との関係や、岳温泉支援への経緯などを顕彰してみたいと考えていす。台湾のコロナウィルス対応と親日的な国民性について考えるいいチャンスかもしれません。
アウフビーダゼン ガウダーさん
  コロナ騒ぎの真っ只中、岳温泉ウォーキングの理論的バックボーンであったハートヴィッヒ・ガウダーさんがお亡くなりになりました。追悼の意味を込め、ガウダ一流ウォーキング理論の復習をしたいと思います。
  ガウダーさんが岳温泉に初めてお見えになったのは2005年2月25日の事です。福島県知事と二本松市長の表敬訪問ののち、安達太良小学校体育館にてのパワーウォーキング講習が皮きりです。当時、岳温泉では21世紀の観光地づくりをドイツ型健康保養温泉地モデルへ転換し連泊滞在型をめざし、高原全体を『日本一多様な散歩道を持つ観光地』にしようと考えてい居た矢先でした。ガウダー来訪の2年前から福島大学のサポートで高原全体に33のウォーキングコースをつくり、また、日本ウォーキング協会監修によるIVVコースの設定、ウォーキングイベントなどの開催もあり、岳温泉の一連の取り組みがガウダーさんを引き寄せたのかもしれません。2005年2月末の最初の来岳の3か月後、6月末に、日本初のパワーウォーキング講習会を三日間の福島大学と県体協の共催にて開かれパワーウォーキングインストラクターも誕生しました。この時は、体育理論とウォーキングの効用、第2の心臓である脚を使いそして心肺機能を高め健康づくりにつなぐかの講義内容でした。ガウダーさんは自己紹介にて、1980モスクワオリンピック時の競歩50kmの金メダリスト(当時は東ドイツ)、1988ソウルオリンピックで銅メダルの後に引退し建築家に転職、古いドイツ家屋の解体時にウィルス性心臓病を患いました。1年間を人工心臓、そして臓器提供者があり心臓移植手術を受けたのが1997年、術後の経過は良く自ら医者に申し出て1998年に医者には薦められないままボストンマラソンなどに出場し完走、2003年には富士登山を慣行するなど、自分の脚を第2の心臓であることを理由に循環機能を向上させ、通常の生活に戻れる状態になったのです。金メダリスト・ハートヴィッヒ・ガウダー氏は自らが心臓移植してもらい生きていることを前向きに捉え、パワーウォーキングとは積極的に体の機能を使う意味を強調しウォーキングを健康づくりつなげることを世界中に訴える活動に入りました。
 2006年秋には日本人の我々をドイツはザルツンゲンとエアフルトに招いて頂き、ゲーテの生家のある街のウォーキング大会にも参加し中部ドイツの自然や木組み家屋の残る街並みを一緒に楽しんだこともいい思い出となりました。ガウダーさんが岳温泉を気に入って何度も訪れたのは中部ドイツの地形に似ていたからかとも思います。
  週3日、一日40分を自分の最大心拍数(女226(男220)−年齢)の60%〜75%で歩くことにより健康が増進するというのがパワーウォーキング理論です。そして歩く事を続けることが大事であると強調『ゆっくり歩くことを畏れるな、立ち止まってしまう事を畏れよ!』の言葉を残し、4月22日に自宅のあるエアフルトから天国に召されました。写真はガウダーさんとのプンパルッウォーキング大会の一コマです。楽しい大会でした。
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