やっちゃんのあぐだもぐだ
過去の記事
最新の記事
陸奥の万葉集最終編
仁徳天皇陵などの古墳群がユネスコの世界遺産登録は素晴らしいことです。大和朝廷の日本統一が4世紀中頃と言われ会津まで和の国になったのが会津の名称の起こりと言われ、ここには大塚山古墳などがあります。陸奥の万葉集最終版は、まずは会津峯の万葉集をご紹介します。

 会津(あいづ)嶺(ね)の 国をさ遠(どほ)み 逢はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね(巻第14 3426)
(解釈;会津嶺の国から遠く離れるので、逢わなくなったら偲ぶよすがにするために、さあ紐を結びくださいな)
歌碑は会津若松市鶴ヶ城三の丸跡(昭和51年の建立)と、磐梯町公民館(昭和59年建立)にあります。

続いて、郡山市に采女伝説として残る歌です。百舌鳥・古市古墳群に近接するのが古代葛城王国であり、葛城王にまつわる万葉集も何か因縁を感じます。

安積香山影さえ見ゆる山の井の 浅き心を我が思わなくに
(巻第十六 由縁ある雑歌3807)(解釈;安積山の影までも映す山の泉、それほど浅い心を私は持たないものを。)葛城王こと橘諸兄と采女の伝説として残る、酒宴でのおもてなしの話しです。

県都の福島市の万葉集と推測されるのが

美(み)夜(や)自呂(しろ)の砂丘辺(すかえ)に立てる顔が花 な咲き出でそね 隠(こ)めて思(しの)はむ
(巻第十四3573譬喩歌)(解釈;みやしろの砂丘に生えているかおの花よ、人目につくほど派手に咲かないでおくれ。人に隠れてこっそり愛でていたいから。)
この和歌の場所は、万葉地理考などから、福島市宮代の摺上川が阿武隈川と合流する当りであろうと考えられますが、歌碑は建立されてはいません。

天皇(すめらぎ)の御代(みよ)栄えむと東なる 陸奥山(みちのくやま)に黄金(くがね)花咲く
      (巻第十八 4097)

大伴家持が越中守の時に、今の涌谷町(宮城県)に黄金が算出した朗報が入り、これでめでたく大仏建立が成り、依って天皇の御世が栄えるであろうとのお祝いの歌であります。
写真は万葉の歌人で編者の一人である『大伴家持』像。奈良県立万葉美術文化館の所蔵です。制作は大山忠作画伯によるものであり、またまた、陸奥二本松との因縁を感じます。
磐城地方の万葉集
G20大阪サミット開幕。習近平国家主席の圧倒的存在感、トランプ大統領のパフォーマンス、若さのマクロン大統領、父親連想のトルドー首相、不気味さのプーチン大統領、東西の要のエルドアン大統領、才女的メイ首相、メリケル首相の風格と気力などなど、国家主席が一堂に会する様は見事です。元号『令和』のお蔭か、万葉の時代の日本と朝鮮半島と中国のことなど時を超え重なってくる感があります。また20万年前にアフリカを出立した人類の先祖達が、大阪の地に先祖返りかと思えるような不思議な感覚にもなるのは古代史にはまっているせいかもしれません。
前置きが長くなりましたが、陸奥の万葉集第三弾・磐城地方の三首について現地レポートと致します。

 筑紫なる にほふ児ゆゑに陸奥(みちのく)の可刀利少女(かとりおとめ)の結ひし 紐解く(巻第14 3427)
(筑紫の彼女に似ているので、ここ陸奥の娘に惹かれ、結んだ紐を解いてしまった)
歌碑はいわき市の北端の石森山の市営公園の山道沿いにあり、昭和62年の建立です。

 比多潟の磯のわかめの立ち乱え わが待つなも昨夜(きど)も今夜(こよひ)も(巻第14 3563)
(比多潟の磯の若布のように乱れたちつつ、私を待つのだろうか、昨夜も今夜も)
いわき市久之浜波立海岸にある波立寺の境内に歌碑(昭和58年建立)はあり、津波に洗われながら無事でした。国道6号線沿いです。

沼二つ通(かよ)は鳥が巣 吾が心 二(ふた)行くなもとなよ 思はりそね(巻14 3526)
(二つの沼を行き来する鳥、そのように二所(ふたところ)に通っているなんて、決して思ってくれるな)
二つの沼の一つは現存しておりその沼の畔に歌碑(昭和57年建立)があります。戊辰戦争の二つ沼古戦場跡でもあり、国道6号線工事で一つの沼は埋められてしまい、国道を挟んで広野火力発電所の2本の煙突がランドマークです。

これら磐城地方の三首をめぐり北へ進むと、2020年東京オリンピックの聖火の出発点広野のJヴィレッジになります。そのまま、6号線を北上すると相馬地区の歌碑三首にお目にかかれます。
 写真は波立海岸からの久之浜の風景。大震災の津波でお寺も被害を受けたようですが、万葉歌碑と、植生についての説明版があります。この波(はりゅう)立寺は徳一大師が開基とされ、海中から現れた薬師如来がご本尊とされております。徳一が北を目指した理由が分る気が致します。次号、陸奥の万葉集最終版は2週間後にアップ予定です。
相馬地方の万葉集
令和元年の5月、皆さんはどんな過ごし方をされたのでしょう。私は、連休前後に旅館を抜け出し、北限の万葉集の地『陸奥』のすべての歌碑を踏破致しました。今回はその中でも2度訪問してようやく見学できた相馬地区の万葉集歌碑をご紹介いたします。
 一つは松川浦の海岸端にあり2011年の大津波の襲われながら無事にパークゴルフ場駐車場の横に海を見ながら立っています。

 麻都が浦に さわゑうち立ち ま人言 思ほすなもろ 我が思ほすうも
  (巻第十四 相聞歌 3574、昭和50年建立 [解釈]麻都が浦(松川浦)に波のざわめきがしきりに聞こえるが、あの人は、そんなざわついた世間の噂を気にしておられたようだよ。私が気にしているように)波のざわめきと歌人のささやきが同時に聞こえそうな場所です。

南相馬市鹿島の桜平公園は『みちのく真野万葉植物園』との名称で整備され、笠女郎が大伴家持に送った歌が立てられています。

みちのくの真野の草(かや)原遠けれど 面影にして 見ゆるというものを
(巻第三 譬楡歌 399 笠女郎、昭和35年建立 〔解釈〕みちのくの真野のかや原は遠いところだと聞いていますが、そんなに遠い草原でも目の前にその姿が浮かびますのに、近くにすむ家持に何故に会えないのでしょう)
大震災の時、海岸から国道6号線までは津波に襲われており、この小高い公園は無事でしたが、笠女郎の歌碑は公園の樹木に隠れ、見つけにくくなっております。

2度の訪問でようやく巡り合えたのが『真吹郷』の歌碑で、平成7年の建立です。

 真金吹く 丹生の真朱(まそほ)の色に出て 言はなくのみぞ 吾が恋ふらくは
(巻第十四 3582、〔解釈〕私はあなたを深く恋い慕っているのですが、他人には知られないように、顔を出さないようにしているだけです)
 原町火力発電所の敷地内にあり、隣接して金沢遺跡保存館の出口に立てられています。古代の製鉄炉(タタラ)が123基と木炭釜149基、古代の住居跡なども多く見つかった場所です。火力発電所の南東側には砂浜が広がり、南側の砂浜は格好のサーフィンサイトでもあります。砂鉄を運び上げ、製鉄炉で鉄を作る古代の一大製鉄所跡であったのです。ここで作られた大量の鉄は農具や刀、鎧などになり、陸奥の国府多賀城付近に集められ、蝦夷地を大和朝廷の国へ組み入れる大事な役割を果たしたところであったのでしょう。
 写真は火力発電所内の古代のタタラです。見学用の通路脇には重い鉄磋が敷き詰められ、長さ15mほどの登り釜式の炭窯も発掘展示され、古代の一大製鉄コンビナートを理解でき、一見の価値ありです。             福島の万葉集、次号に続く
万葉集北限の地「福島」
新元号令和のお陰です。本屋の店頭には万葉集関係の書物に帯封『祝・令和』が付くの目立ち、酒屋の店先にも令和ラベル日本酒が陳列されています。GW10日間連続休日のお蔭で温泉旅館はどこも大盛況、福島県全体が盛り上がっている感じです。さらに、にんまりしながら、万葉集に詠まれた北限の山=安達太良山である事をアピール出来るチャンス到来の思いを強くしました。
 万葉集は全4516首、うち238首が古代東国の歌が東歌です。遠江(とおとおみ)、信濃以東の陸奥まで、北限は現在の福島県となります。万葉集の巻十四全体が東歌であり、全二十巻のうちに11首が福島県の特定の場所である事がこれまでに判明しており、そのうちの三首が安達太良を読んでいます。

陸奥の 安達太良真弓 弦(つら)はけて 引かば香人(かひと)の我(わ)をことなさむ
(巻第七 1329 歌碑は昭和63年本宮町中央公民館に設置)
〔解釈;安達太良の真弓につるをつけて弓を引くようにあなたに心を寄せたら、世間では私とあなたを何と噂するでしょう〕

安達太良の 峯(ね)に伏す猪鹿(しし)のありつつも 我は至らむ 寝処(ねどな)さりそね
(巻第十四 3428)〔解釈;安達太良山には鹿や猪たちの楽園があって、そこから抜け出すことはない。あなたも動かずに、私が行くまでそこで待っていてほしい〕

歌碑は天保6年に二本松市杉田落合の俳人宅横に建立されており、当時の二本松藩の文化レベルの高さが感じられます。万葉仮名で書かれており、下部には二本松、本宮、安達太良山、三春への距離数表示で、当時を忍ぶことが出来ます。

陸奥の 安達太良真弓はじきおきて 反(せ)らしめきなば 弦(つら)はかめかも
(巻第十四 3437 昭和53年に二本松市観音丘陵遊歩道に設置)(解釈;陸奥あだたらの真弓は、弓弦を外しておいて反っくり返らせるようになったら、もう2度と弦を張ることなどできませんよ。)

因みに安達太良の枕詞は真弓です。真弓は清楚で情熱的で強靭であることの意味を持ちます。713年発令の好字令以降は、真弓の枕詞は安達に付くようになっています。
4世紀の大和朝廷日本統一から300年後の8世紀頃は、福島県が日本最北の地でありました。この1300年前の『陸奥ふくしま』の悠久イメージに触れるつもりで万葉歌碑巡りにお出かけ下さい。
写真は落合の万葉集歌碑、江戸時代の旅人も思いを寄せていたかもしれません。

平成スキー場物語2
岳温泉で除雪車の登場を見なかった初めての冬が平成最後の年になってしまいました。各地のスキー場は降雪量が例年の半分以下、何とか3月末までは営業を引き延ばす努力をしている事に、スキー場関係者にエールを送りたい気持ちでいっぱいです。冬が終わり寂しい気持ちなので、スキー場の話で平成時代を振り返ってみたいと思います。
日本で最初のスキーは明治44年1月、上越は高田にて軍事訓練のため、オーストリアから派遣のレルヒ少佐によるもの、同年3月には開通したばかりの奥羽線の山形と福島の県境にある五色温泉にオーストリアの商社マンがスキーをしており、その後の東北地方のスキー振興の要となりました。大正3年に猪苗代では磐越西線川桁駅からの軽便鉄道が中ノ沢温泉まで運行しており、早稲田大学スキー部が初のスキー合宿を行ったのが大正9年、東北地方最古のスキー場です。岳温泉スキー場は、昭和4年12月開設、昭和29年は東北陸運局第一号のリフト運行となりました。猪苗代にスキーリフトが架けられたのが昭和34年この頃からスキーブームが始まり、その後、県内各地にリフトを設置したスキー場が沢山誕生したのが昭和の時代です。
さて、本論。平成時代のスキーリゾート論2。昭和時代の後半、バブル景気とリゾート法の施行により、県内には続々と大きなスキー場が登場致しました。折しも土湯トンネルが開通し、冬期間でも県都福島市と雪の会津を簡単に行き来できるようになり、またリゾート法活用の素晴らしいスキー場開発が未開の山間地までおよび、会津地方全域が一流の山岳リゾートになるとの予感がありました。『私をスキーに連れてって』の映画のテーマソングに乗る若者、またスキー修学旅行も全盛期でスキー場にはスキーヤーが溢れました。しかし数年前の予感は見事に外れ、スキーヤーの目減りが目に見えて来たのが1997年ごろでした。「なんで、スキーヤーが減ったの?」「スノーボードが出て来たからだ!」とか、「リフト料金が高いからだ」とか、スキーヤーの減少傾向に百家争鳴の如くスキー場経営論が飛び出しました。スキーブームに限り陰りが見えたときに光った経営論が白馬47のスキーヤー満足度を大事にした事例と、ツェルマットの環境主義と自治組織による経営論であったことが記憶に残っております。福島は2011年3月11日の大震災と原発事故風評被害を克服できないままですが、平成時代に新しくなったスキー場が沢山在り、さらにリノベーションに取りかかった所もあるのが福島のスキー場の特徴です。是非、滑りにお出でください。
新元号の発表は明日。昭和は戦争の時代の反省から「平成」になったと解釈します。平成は地球温暖化現象からの問題解決につながる元号になればいいと思うのは、雪大好き人間の願いですがいかがでしょうか?新元号の人気投票では栄安、久安とかが出てますが、安雪とか安天なんかはどうですかね?人工知能が人間の頭脳に追いつく2045年は新元号26年に当たるので、ロボットに人間が征服されず、自然の雪でスキーをやりたいと思うのは私だけでしょうか。写真は数年前の豪雪の後の温泉街です。来年の冬からは雪が平年通りに降って貰いたいものです。
非日常空間への旅を思う
  くしろさっぽろ国体のスキー競技の応援団としての報告です。アルペンがテイネ、ジャンプが宮の森、クロスカントリーが白幡山会場、開始式が札幌文化国際劇場でした。オープニングセレモニーにはトワ・エ・モアが登場し、今回の国体のテーマソングと札幌オリンピックのテーマソングが歌われ会場が盛り上がりました。
1972札幌オリンピックのテーマソングであった『虹と雪のバラード』は耳に焼き付いており、一曲目の『♪…イランカラブテ……♬』のフレーズには当初は意味不明でしたが、アイヌ語で「あなたの心にそっと届きますように」と言う意味で、心から歓迎の意味を表す言葉らしく、国体競技開催中に耳と目に付くキャッチコピーであるのが印象に残った大会でした。
  4年ぶりの札幌入りですが、札幌全体が非日常空間になっているのを今回は特に感じました。私が最初に札幌を訪れたのが1966年夏、大学1年の時の合宿地が真駒内自衛隊基地であり、毎日毎日、走りづくめの記憶しかありません。基地から定山渓まで28kmを走ったことも記憶の片隅にあります。夏に引き続き、1か月半の長い冬合宿も北海道でした。倶知安、小樽、そして札幌では自衛隊カマボコ宿舎と年末年始はスキー部OB宅に大勢で泊めて頂き、今思うとご迷惑をかけた思いが残ります。この頃の札幌市の人口は50万人位であったと思います。そして1972年の札幌オリンピックです。この時のテーマソングがトワ・エ・モアの『虹と雪のバラード』であり、歌詞「町ができる美しい町が…♬、…今太陽の真下に 生まれ変わる札幌の地に 君の名を書くオリンピックと♪♬」のフレーズが予言のように聞こえ、今回の国体で昼夜を通して徘徊し、札幌の町の変容ぶりに驚いております。その後もキャンペーンなどで何度も訪れ、4年前の6月に藻岩山登山で『ヒグマに注意』の看板に驚いたこともあります。この時は狸小路出身の友人と毎朝10キロ位の市中散歩で、札幌市の概要が頭と体に張り付いており、今回の国体になりました。日中はアルペン会場、ジャンプ会場、クロスカントリー会場と広い札幌を山の上から平地まで巡りますが、夜はすすきのナイトです。会食会前に狸小路の外国人比率が7割くらいであったのには驚きです。ドラッグストアーが、Duty Freeの看板を上げている様と、こんなにも薬が売れるのかとあっけに取られるほどでした。
  まさに札幌そのものが大都市でありながら、雪があるおかげで誰にとっても非日常空間化している様には驚きでした。渋谷と新宿と池袋と銀座が一か所にまとまったような食と買い物の空間になっていたのには改めて驚きを隠せません。皆がノンスリップの雪靴を履き、防寒具を着、外国人比率が半分の人口180万人の雪国の大都市です。こんな非日常空間だから自然に人が集まってくるのでしょう。
  新千歳空港ロビーでのアイヌ民族舞踊の特設ステージを垣間見、雪のない仙台空港に降り立ち日常空間に戻った安堵感&虚脱感を感じながらの帰宅でした。国体での福島県の代表選手入賞もアルペンもノルデックもあり満足の旅でした。写真は福島県出身のノルデック複合5位入賞の渡部剛弘選手とのワンショット。平昌オリンピック代表でしたので優勝を逃し残念がっていました、次の全日本選手権でトップになると言っていました。
カツ丼とスキーの話
「大阪なおみが勝つと、かつ丼が売れる」現象を、「風が吹けば、桶屋が儲かる」的現象と同じだと思い、グーグル検索をかけたらすぐに検索できたのには驚きでした。このような現象を『バタフライ効果』と言うのだそうです。気象学者のエドワード・ロレンツが唱えた理論であり、「カオス力学系において、通常なら無視できると思われるような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となる現象のことを指す。カオス理論を端的に表現した思考実験のひとつ、あるいは比喩である」との、ウィキペディアからの解説です。マーケテイング理論にも応用され、「風が吹けば桶屋が儲かる確率はいったいどれくらいなの?」との疑問には『風が吹けば桶屋が儲かるのは0.8%!?』のタイトルの本も出版されており、まだ読んでいないので購入して勉強したいと思います。この本の購入も経済効果の0.8%に入るのかもしれません。
  今年の福島県はスポーツに関しては何となく他県に比較して先を言っているような気がいたします。1月20日に広島で行われた天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会にて福島県が初優勝、この時は磐梯山麓の雪の上に居り、ラジオ福島実況放送の途中経過をまた聞きでした。「今のところ5位、一時は1位にもなったけどまた2位に落ちた」と聞いて帰宅、全国初優勝の快挙には驚きました。昨年12月23日の高校駅伝で学法石川高校が全国三位の成績を残しており、よもやの結果が優勝タイトルとは福島県人の誰もが驚いたに違いありません。第7走者でアンカーの相澤選手が2位からの首位奪還、さらにダントツで優勝のテープを切った様には驚きでした。第6走者は二本松市東和中学の宍戸選手、これからの二本松スポーツがさらに盛り上がることも期待出来ると確信しました。
東京オリンピックマラソン銀メダリストの円谷幸吉選手は須賀川出身、古くは梁川出身の三浦弥平選手。1920年アントワープオリンピックで24位の成績、次のパリオリンピックにも出場しており、もともと福島県の陸上選手の素材は良いようです。平成最後の新年早々、長距離走『福島県が名実』ともに全国のトップになり、お陰でスキーの距離競技にも全国一の座を目指せとのプレッシャーがかかります。スポーツの持つ効果と合せて、スキーアスリートが大いに活躍できることを期待したいと思います。
  さて、スキー場の話。スキーヤー人口がピーク時の1800万人から、現在は580万になっているとかであり、これを何とかしなければと思う毎日です。スキー&スノーボード未経験者にも何とかスキー場に足を運んでもらいたいものです。そんな中、浮かんだのが世界一のテニスプレーヤーの勝利の後の一言「かつ丼食べたい!」でした。スキー場の食事は余りおいしくないイメージがありますが、中には美味しいところがあります。例として、野沢温泉スキー場サンアントンレストハウスのチロル風煮込み料理とパンはうまいですよ。我があだたら高原スキー場の『かつ丼』は厚い肉と玉葱を、出汁卵で煮込みます。器がスキー場的ですが絶品ですので写真にしました。どうぞ、お召し上がりください。 
平成スキー場物語
スキーほど楽しいスポーツはない。その想いを胸に、平成最後の大晦日に、平成時代30年間のスキー場事情を振り返ってみようと思います。
平成元年(1989)9月の土湯トンネル開通により、県都福島市と会津地方が冬期間も直接つながりました。雪国会津へのトンネルを抜け出たところに箕輪スキー場開設したのがこの物語の序章です。リゾート法の施行が会津地方を中心に大型スキー場を続々と誕生させる現象につながっていきました。
東北最大規模を誇るアルツ磐梯スキー場と裏磐梯グランデコスキー場は、平成4年12月の開設。巨大なリゾートホテルも続々と出現し、世界的リゾートエリアに変身するような予感を感じるほどでした。裏磐梯がスキー場エリア化して磐梯山周辺は大噴火口部分を除いて全部の尾根と谷がスキー場で繋がるようにも感じられたのです。
 日本のスキー場開発のパイオニア的存在である猪苗代スキー場もこの時期にミネロスキー場を拡大併設し、平成7年2月には国体開催となりました。ユニークなスキー場はリステルスキーファンタジアです。巨大な宿泊施設を併設し、モーグルコースを備えFISワールドカップを開催(1988年から16回)、翌年の長野オリンピック以降の日本モーグルチームの活躍に繋ります。平成21年のFISフリースタイルスキー世界選手県猪苗代大会開催もここをメイン会場に開催されました。
南会津でもこの時期に大型のスキー場の開業と拡張が相継ぎました。会津高原たかつえスキー場、だいくらスキー場に続き、平成5年には会津高原高畑スキー場が開設しました。山頂からは越後三山がすぐ近くに見える位置にあり豪雪地帯の穴場です。高畑スキー場から30分の所には檜枝岐スキー場があり、「会津弁」地域にありながら平成の現在でも古代「京都弁」が標準語の人口600人の檜枝岐村は特筆に値する地域です。
さて、中通りのスキー場は南側からグランディー羽鳥湖スキー場、そして、我があだたら高原スキー場です。あだたら高原スキー場の前身は岳温泉スキー場、開設は昭和4年ですが平成元年に夏冬兼用のゴンドラが新設されたことで、平成スキー場物語の仲間入りです。
スキー&スノーボード人口は平成5年で1800万人、平成17年は580万人とピーク時の3分の1、ウィンターリゾート経営の大きな問題ですが希望は捨てていません。平成13年の冬、ある医学学会のスノーサイドミーティングが当館で開催されたのです。滞在中にあだたら高原スキー場と箕輪スキー場にスキーウェアで出かける姿が眼に焼き付いています。日本のスノーリゾートが国際会議に、そして銀世界を満喫できる場になる目前まで迫った平成時代でした。次の元号の時代には、この理想が実現できるようになりたいものです。
平成の年末、日本列島は強い冬型の気圧配置です。今シーズンもスキーと温泉を楽しみお出で下さい。写真はあだたら高原スキー場、コンディションが最高です。
前へ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 次へ